マタイの福音書10章34~42節

自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。         マタイの福音書10章39-40節 (p19)

序 論)
主イエスは弟子たちに「恐れてはいけません」(26、28、31)と三度も呼びかけ、ご自身も彼ら以上に苦難を受けられること、父なる神様は私たち一人ひとりを顧みてくださっていることを教えてくださいました。
 さらに主が語られることを通して示されることは…

本 論)
1、使徒(遣わされる者)の覚悟
 
地の上に平和をもたらすために来られたお方、主イエス がどうしてここでは「…剣をもたらすために来ました。」 (34)と言われたのでしょう。
 ここでの「…ために来た」は目的を表す意味ではなく、「来られた結果」として、そのようになるという意味で用いられています。
 ここでの「剣」は、主イエスの教え、みことばという意味だと受け止めることができます。 (へブル人への手紙4章12節p441)
 主イエスのみことばは時に家族の中で信じる者とまだ信じていない者に分けたり、その関係を「刺し通す」結果になることがあります。(35-36)
 弟子たち(使徒たち)は、時に肉親の敵意さえ招くことを 覚悟しなければならないこともありました。
 そのような中で、弟子たちのご自身に対する愛を主は問われます。(37)
 続いて主イエスは十字架について語られます。(38)
 これはご自身の苦難の予告であり、使徒たちに(象徴的な 意味であれ、文字通りの意味であれ)苦難を経験することを覚悟させるみことばでした。
 ジョン・ノックスは「自分のいのちを得る者」(39)とは 「迫害に屈して信仰を否み、あるいは良心を殺し世に妥協 して自分のいのちを救った者」だと説いています。
 その逆が、主イエスの言われる真のいのち(永遠のいのち)を得る者なのです。(39) 

2、遣わされる者への報い
 当時、少数であっても、遣わされた弟子たちを受け入れる者もいました。
 彼らを受け入れることは主イエスを受け入れること、主イエスを遣わされた天の父なる神様を受け入れることになります。(40)
 これは遣わされた者と遣わされるお方が一体であることを示しておられます。そのことは弟子たちにとって大きな特権であり、責任を伴うことでした。
 使徒たちは神の国の奥義を語る「預言者」であり、神の義を説き、良い行いを実践する「義人」でした。
 預言者や義人をそれぞれにふさわしく受け入れる者は、 預言者や義人に与えられる報いを自分も受けます。(41)
 「小さい者たち」(42)は、当時のユダヤ教の教師たちが弟子たちを呼ぶのに用いた表現で、ここでは主イエスの弟子たちを指して言われています。
 小さな取るに足りないような弟子たちが主イエスの弟子 としてふさわしく、「一杯の冷たい水」(わずかなもてなし)でも与えられるならば、与えた人は必ず神様から報いを受けます。(42)
 このように神様は、使徒たちをもてなす者を、使徒の働きへの参与者、協力者とし、それに報いられるのです。
 主イエスは弟子たちに語られた後、十二弟子を使徒として各地に遣わされました。

 結 論) 改革者マルティン・ルターは、ここでの「剣」を  人々からの敵意と、霊想しています。
 主イエスは誰よりも多くの敵意と十字架の御苦しみをご自身に受けてくださいました。
 主の十字架の死によって私たちの罪は赦され、傷は癒されたのです。(ペテロの手紙 第一 2章19-25節p468)
 主のご愛と恵みに応答し、主を信じ、愛し、従う歩みを続けてまいりましょう。
 自分が置かれている所で、主と教会に仕え、主の宣教のお働きのために、それぞれが示された務めに励んでまいりましょう。

(参考)
   ジョン・ノックス(1510-1572)
      (スコットランドの牧師、スコットランド宗教改革の指導者)