マタイの福音書10章26~33節

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。マタイの福音書10章28-29節 (p19)

序 論)
この章では主イエスが十二使徒を任命し、派遣されること、主が彼らに語られた教えが記されています。
 主は彼らに迫害や困難にあても恐れず語るように励まされます。
 主が語られたことを通して示されることは…

本 論)
1、真に恐れるべきお方
 
主イエスが宗教指導者たちから迫害を受けたり、非難されるように弟子たちもそのようにされることがあります。
 しかし、主イエス以上に苦しむことはありません。 (24-25)
 続いて主は、真理は必ず明らかにされると語られます。
 迫害者を恐れて語らないでいるとしても、福音を隠して おくことはできません。(26)
 主イエスから教えられたことを公然と、恐れず言い広めるようにと語られます。(27) (当時のユダヤの住居の平らな屋根は、談義や論議のときによく使われていました。)
 次に主イエスは、迫害の苦難が恐ろしいものであっても、それは人のたましいを殺すことはできない、と言われます。(28)
 人が真に恐れるべきお方は、たましいもからだも共にゲヘナで滅ぼす力を持っておられる神様です。
 真に恐れるべきお方を知らない者は、神様以外の様々な もの(偶像)を恐れてしまいます。

2、主イエスへの信仰を告白する
 神様が一人ひとりをかけがえのない存在として覚えておられ、顧みてくださるから、福音を語ることができます。
 二羽一組にされてようやく「一アサリオン」という値のつく、価値のないように思える雀でさえ、神様のお許しがなければ地に落ちません。(29)
 小さな雀も神様のご配慮の中にあります。
 それなら、雀よりはるかに尊い価値のある人間はなおさらです。
 しかも、神様は人間を、その「髪の毛さえも」数えておられるほど、この上なく、こまやかに顧みてくださいます。 (30-31)
 このような愛とご配慮を持たれる神様が味方なので、あなたがたは迫害を恐れる必要はない、と主イエスは言われます。
 主イエスを「認める」とは、主への信仰を人前で告げる(告白する)ことです。(32)
 「人々の前」は地上の法廷を、「天におられるわたしの父の前」は、天上の神の御前の法廷を意味しています。
 地上の法廷で告白することは天上の法廷で認められることになります。
 反対に地上の法廷で、主を知らない、と言うなら、天の法廷で主に否まれることになります。
 主はこのように弟子たちにおごそかに警告されました。
 後にペテロは主を否んでしまいます。 (マタイの福音書26章69-75節p59)
 しかし、十字架で死なれ、復活された主イエスはペテロたちを訪ねられ、罪を赦し、新たに宣教に遣わされたのです。(ヨハネの福音書20章21節p228)
 ペテロも他の弟子たちも生涯、主に従い、それぞれの務めを果たしていきました。

結 論) 主イエスは弟子たちに「恐れてはいけません」(26、28、31)と三度も呼びかけ、主イエスも彼ら以上に苦難を受けられること、父なる神様は私たち一人ひとりを顧みてくださっていることを教えてくださいました。
 このように命じられ教えられた主は、私たちを罪による滅びから救うために、私たちを愛し、ご自分のいのちを惜しむことなく十字架で捨てられたお方です。そして、復活されたお方です。
 主イエスのなされた救いのみわざにより、神様はどんな時も私たちの味方となり、守り、支えてくださいます。(ローマ人への手紙8章31-32節p310)
 私たちが遣わされている所、置かれている所で、主を愛し、信じ、従う歩みを続けてまいりましょう。