「死を突破して永遠のいのちへ」 講壇交換礼拝 宇都宮共同教会 田上篤志牧師
今朝の聖句は「罪の報酬は死です」と語った後、しかし「神の賜物は……永遠のいのちです」と続くのですが、この「しかし」は、罪の報酬としての死と正反対のことを示すための単なる接続詞ではありません。また、罪の報酬が死であるという事実を打ち消すためのものでもありません。ならば、この「しかし」には、どういう意味が込められているのか、ここにこの聖句の恵みに満ちた重みを理解する鍵があります。
私たちはそれぞれ人生の旅路を進むようにして生きています。やがていつか、しだいに、あるいは突然、罪の報酬は死ですという危機を現実として受けとめる時がきます。この危機を回避する手立てはなく、罪の報酬としての死を受け入れるしかありません。それが聖書の示している罪人としての人間の実情です。それは打ち消すことのできないものです。罪の報酬としての死という状況を前に、私たちは手の施しようがありません。そのような現実があるのにもかかわらず、聖書は告げるのです。――しかし、あなたはここで立ち止まらないで先に進みなさい。ここを突破するのです。そして永遠のいのちにあずかりなさい!
このように、この聖句の「しかし」は、罪の報酬としての死を突き抜けたところにある、永遠のいのちという偉大な希望を指し示しています。そして罪の報酬である死という危機があるにもかかわらず、私たちにこう呼びかけているのです。――しかし、前進せよ!
さて、それならば、罪の報酬としての死を突き抜けることを可能にしているものは何なのでしょうか。死を突き抜けたところにある永遠のいのちにあずかることを可能にしているものは何なのでしょうか。そのことを端的に示しているのが使徒信条のなかにあるキリストについての信仰告白です。そこにはこう言いあらわされています。
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり
三日目に死人のうちよりよみがえり
「……死にて葬られ、よみにくだり」と「三日目に死人のうちよりよみがえり」との間には、今朝の聖句にあるのと同じ「しかし」が隠れています。キリストは十字架において、罪の報酬としての死をすべての人間の身代わりとなってお受けになりました。しかし、死人の中から復活されました。恵みに満ちた輝きを放つ「しかし」が語られる根拠、それは、キリストの十字架による死と復活にこそあるのです。