弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。マタイの福音書10章24-25節 (p19)
序 論)主イエスは、十二使徒を任命され、イスラエルの民に遣わされます。(1-4)
派遣の前に、主は彼らにいくつかの指示をされました。(5-14)
続いて主が弟子たちに語られたことを通して示されることは…
本 論)
1.狼の中に羊を送り出すように
「イスラエルの家の失われた羊たちのところ」(6)に宣教 に行くことは「狼の中に羊を送り出すよう」だと言われます。(16b)
ここでの「狼」は特にイスラエルを荒らす指導者たち、偽教師、偽預言者たちを指して言われています。
弟子(使徒)たちは、狼の中に送り出される羊のように弱 く無力な者たちでした。
ゆえに主は「…蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」(16c)と言われます。
これは身の危険などを見分ける賢さを持ち、遣わされた お方を素直に信頼して歩むように、という意味で仰られた と受け止められます
弟子たちは同胞のユダヤ人によって裁判にかけられたり、 会堂でむち打ちの刑に処せられるかもしれません。 (17)
また異邦人の権力者たちの前に引き出される可能性もありました。(18)
だから賢く用心すると共に、迫害にあったらそれを証しの機会とするようにと言われます。(18)
また心配をすることなく、彼らの内にあって語るべきこ とばを与えてくださる父なる神の御霊に信頼するように、 と仰られました。(19-20)
2.人の子が来る時までに
迫害は身内からも起こり、ときには「死に至らせる」ほど激しいものもありました。(21)
また孤立無援になることもあります。(22a)
主イエスは「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」 と約束されました。(22b)
様々な困難に遭遇しても、最後まで忍耐する者は、終わりの時に救いの完成の祝福にあずかるのです。
続いて一つの町で迫害にあったら、別の町へ逃げなさい、 と言われます。(23a) 時にはそのような「賢さ」も必要なのです。
23節後半のみことばは様々に解釈されてきました。 (「人の子」は20節との関連で聖霊のことだとする解釈も あります。)
「人の子」は主イエスがご自身を指して言われたことばで特に再臨されるご自身のことを言われるときに用いられる表現です。(ダニエル書7章13-14節p1522)
ここでは主の再臨までに、という意味で言われたと解釈 できます。
どの解釈でも働きの時が限られていることが示されています。
24-25節の「師」や「主人」は主イエスご自身、「弟子」や「しもべ」や「その家の者」は主の弟子たちのことを指して言われています。
主イエスが非難、迫害されているように弟子たちも非難迫害されます。(9章34節p17)
「家の主人」と「その家の者」は主イエスと弟子たちの関係が家の主人とその家族のように親密であることを示しています。(25b)
「ベルゼブル」(25b)は当時のユダヤ人たちの間で「悪霊のかしら」(サタン)を意味する名称になっていました。
結 論) 父なる神様が主イエスを地上に遣わされたように、主は弟子(使徒)たちを遣わされました。
当時の弟子たちが置かれていた状況や直面した迫害と、現在のこの国の状況とでは異なる点がいろいろあるかもしれません。
しかし、私たちも主イエスによって「この世」に遣わされているのです。
この時の弟子たちのように、私たちも弱い羊飼いのような存在です。
しかし、主イエスは私たちにとって最も良い羊飼いです。 (ヨハネの福音書10章14-18節p202)
羊飼い(牧者)である主は真実に私たちを愛し、私たちの祝福を願って、それぞれの歩みを守り、導いてくださるのです。
主の再臨を待ち望みつつ、それぞれ置かれたところで主を証ししてまいりましょう。
(参考)
『小羊の王国』、『ヨハネの黙示録注解』
(いのちのことば社)(岡山英雄著)