マタイの福音書9章32~38節

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」マタイの福音書9章36-38節 (p17)

序 論)
ガリラヤの地で、主イエスは、目の不自由な二人を癒されました。(27-31)
 さらに主は癒しのみわざを成されます。
 それを見たパリサイ人の反応とその後の主イエスの言行を通して示されることは…

本 論)
群衆とパリサイ人たちの反応
 
人々は悪霊につかれて口のきけない人を主イエスのみも とに連れて来ました。(32)
 主は彼から悪霊を追い出されました。彼の口は開かれ、ものを言い出しました。(33a)
 群衆は主のみわざを前代未聞のこととして、驚嘆しまし た。(33b)
 しかし、パリサイ人は、主のみわざを「悪霊どものかしらによる」ものと、非難しました。(34)
 彼らは、目の不自由な人の癒し等の「メシアのしるし」を見ても、自分たちの偏見や高慢さのゆえに主イエスを受け入れることができませんでした。
 彼らは、霊的な目が閉ざされて、主イエスを神の御子、救い主と信じることができなかったのです。
 それから主イエスは弟子たちと共に多くの町や村を巡られました。(35)
 人々が集まって来るのを待たれるのではなく、ご自分の方から出向かれました。
 主は会堂で教えられ、御国の福音を宣べ伝えられました。
 そして、癒しのみわざを成されました。(35)
 このとき、主の大きなお働きが、教え、宣教、癒しのみわざであったことが示されています。

2.主は群衆を見て深くあわれまれた
 ガリラヤの各地を巡り歩かれ、主イエスがご覧になったのは「弱り果てて倒れていた」群衆でした。(36)
 ここでの「弱り果てる」の原語は「追い詰められて疲れ果てること」を表す強い意味の言葉が用いられています。
 「倒れている」の原語は「投げ倒される」「打ちのめされる」を意味する言葉で、群衆の霊的虚脱や混乱状態を表しています。
 その様子はまさに「羊飼いのいない羊の群れ」のような姿でした。(36)
 旧約においても「羊飼い」は、王、祭司、預言者たちを指し、イスラエルの民は「羊」にたとえられています。(民数記27章17節p292)
 主は彼らを深くあわれまれました。(36) ここでの「深くあわれむ」の原語は本来「内臓が揺り動かされる」「はらわたがよじれる」(日本語にも「断腸の思い」という言葉がある)という強い意味の言葉です。
 人々は、真の羊飼い、導き手であるお方、そして御国の福音を必要としていました。
 しかし、主イエスはこのとき、主と共に宣教する人の少ないことを指摘され、そのことを弟子たちに告げられます。 (37)
 そして、主は人々のため、神様が「働き手」を送ってくださるよう、弟子たちに祈り求めることを弟子たちに命じられました。(38)

結 論) 私たちもかつては真の神様を知らず「羊飼いのいない羊」のような者でした。
 しかし、主イエスは真の羊飼いとして、この世に来てくださり、十字架でご自身のいのちを捨ててくださいました。(ヨハネの福音書10章14-16節p202)
 それは私たちを罪から救い、永遠のいのちを与えられるためだったのです。
 主イエスは私たち一人ひとりにとって「私の羊飼い」です。 (詩篇23篇1節p954)
 主イエスは今も、日本を、世界を、深くあわれまれつつご覧になっておられます。
 そして、父なる神様と共に聖霊によってすべての人に働きかけ、語りかけておられます。
 宣教の収穫のため、さらに働き人を起こしてくださるよう、収穫の主である神様に祈り、求めてまいりましょう。