そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。マタイの福音書9章29-30節 (p17)
序 論)ガリラヤの地で、主イエスは、婦人病の女性をいやされ、死んでしまった少女を生き返らせられました。 (18-26)
さらにそこから進んで行かれる主に、目の不自由な二人が叫びながらついて来ました。(27)
このときの主イエスの言行と起こった出来事を通して示されることは…
本 論)
1. 主にあわれみを求めて叫ぶ二人
当時のパレスチナでは、厳しい暑さ、砂ぼこり、不衛生な生活環境のため、目の病気になったり、失明する人が多かったと考えられます。
二人の目の見えない人は、主イエスに「ダビデの子よ、…」と呼びかけました。(27)
「ダビデの子」はメシア(救い主)の称号です。しかし、この称号は当時、政治的解放者としての意味が強い言葉でした。
主は彼らにすぐには答えられませんでした。
彼らは、救い主であるイエス様は、自分たちを癒してくださる、と信じて家までついて来たのです。(28a)
彼らは預言者イザヤの預言の言葉により、救い主による癒しのみわざを信じ、あきらめずに主について来たのでしょう。(イザヤ書35章5-6節p1222)
主イエスは、二人に「わたしにそれができると信じるのか」と問われました。(28b)
主がこのように問われたのは、彼らから、主に対するより明確な信仰を引き出そうとされたからでしょう。
彼らは、「はい、主よ」(28b)と短く答えました。
2.主によって目が開かれた二人
主イエスは「お心一つで」、あるいは御声をかけられるだけで病を癒すことがお出来になるお方です。
福音書には主イエスが、病人に触れられる場面が、いくつか記されています。マタイの福音書8章1-3節p13 等)
この時も主イエスは、二人の目に御手を触れられました。(29)
そして、彼らが主を求め、答えたこと(28b)を「あなたがたの信仰」と仰られました。
彼らは、触れてくださった主イエスの御手の温かさを感 じ、その御手に主のあわれみ深さを感じたことでしょう。
彼らの目は開かれました。(30a)
主イエスによって目が開かれた二人が、まず最初に目にしたのは主の御姿だったでしょう。
この後、主は、二人に癒されたことを誰にも言わないようにと厳しく命じられました。(30b)
主はこの奇跡のみわざにより、人々が主を政治的解放者 と思い込み、熱狂的な期待が高まるのを避けるためにこのように言われたと考えられます。
しかし、二人は主イエスのご命令に従わず、出て行って、主のことを言い広めました。(31)
今はその時でなかったのに、彼らは喜びのあまり黙って いられなかったのかもしれません。
主に対する評判は広まりますが、パリサイ人たちはこの後、主は「悪霊どものかしらによって…」、奇跡のみわざをなしているのだと、非難するようになります。(34)
そして、彼らの敵意と憎しみが後の主イエスの十字架の 死につながっていくことになります。
結 論) 私たちもかつては、神様や主イエスがどのような方かを知らず、霊的な目が閉じられていた者たちです。
しかし、神様のお導き、聖霊と聖書のみことばによって私たちは神様と主イエスがどのようなお方かを示され、主への信仰が与えられました。
ある説教者は「主イエスによって目が開かれた二人が、主の御姿の次に見つめたのは、お互いの顔だった。」と霊想しています。
私たちも、十字架で死なれ、復活された主イエスによって罪赦され、霊の目を開いていただいた者たちです。
私たちは、主イエスと共に、そして、同じ様に主によって目を開かれた他者(主にある兄弟姉妹)と共に、歩んでいくのです。