マタイの福音書9章14~17節

また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。マタイの福音書9章17節 (p16)

序 論)
主イエスはある家で取税人たちと食事をされ、パリサイ人たちに語られました。(10-13)
 それから、洗礼者ヨハネの弟子たちが来て、断食について主にお尋ねしました。(14)
 主イエスが彼らに語られたことを通して示されることは…

本 論)
1.花婿が取り去られる日
 当時、ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは、週二回、日中は断食していたと言われています。
 旧約聖書には、罪の悔い改めやへりくだりのしるしとしての断食、哀悼の意を表す断食のことが記されています。
 かつて主イエスも荒野で断食をされました。(マタイの福音書4章2節p5)
 しかし、断食が婚礼の席にふさわしくないように、主イエスが弟子たちや取税人たちと共におられるときは、断食は必要ありませんでした。それは、喜びの時だからです。
 主は喜んで彼らと食事をされました。
 旧約聖書では神様とイスラエルの関係が、花婿と花嫁や夫と妻の関係にたとえられている箇所があります。(イザヤ書54章5-6節p1260 / イザヤ書62章5節p1273等)
 ここでは主イエスがご自身を「花婿」にたとえて語られました。(15)
 このときは「花婿」である主イエスが「友人たち」である弟子たちと共におられる喜びの時でした。
 しかし、主は「花婿が取り去られる日が来ます」(15)と言われます。
 これはご自分の苦難の到来のときの予告でした。
 それは主イエスが弟子たちから奪い取られて逮捕され、十字架にかかられる時です。
 その時、弟子たちは深い悲しみから断食します。

2.新しいぶどう酒は新しい皮袋に
 次に主イエスは婚宴に関連して、主イエスが与えてくださる救いを衣服とぶどう酒にたとえて語られました。
 真新しい布切れを衣に当てたら、縮んで、かえって回りの古い布の裂け目を広げることになり、結果はもっと悪い状態になります。(16)
 主イエスの教えや行い、成そうとしておられる贖いのみわざは、ユダヤ教のわくの中には収まらないものでした。
 当時、羊や山羊の皮で作られた「皮袋」(17)に水や乳やぶどう酒を入れて貯蔵していました。
 新しい皮袋は柔軟で伸縮性もありますが、古い皮袋は固くなって伸縮性を失います。
 新しいぶどう酒は発酵をまだ終えていないので、発酵による圧力が皮袋にかかり、古い皮袋では張り裂けてしまいます。古い皮袋は、ぶどう酒と共に失われることになります。
 新しい皮袋はこの圧力に耐えることができます。
 ここでは主イエスのもたらされる救い、福音の力、いのちが新しいぶどう酒の発酵の力(活力)にたとえられています。
 主イエスはご自身の新しい教えを新しい皮袋のように柔らかいへりくだった心で受け入れることを願っておられたのです。
 あわれみの心と謙遜を失っていたパリサイ人たちは、すべての人に救いと永遠のいのちを与えるために地上に来られた主イエスを信じ、受け入れることができませんでした。

結 論) 主イエスが予告されたように(15)、ユダヤの指導者たちは主を捕え、主は十字架で死なれました。
 しかし、主イエスは復活され、弟子たちの前に御姿を現わされました。
 彼らの悲しみは喜びへと変えられました。
 主イエスを神の御子、救い主と信じる者は罪赦され、聖霊が内に与えられます。
 聖霊によって主イエスは私たちと共にいてくださるのです。
 主イエスは「週の初めの日」に復活されました。
 主の日(日曜日)は主イエスの復活を喜び、共に礼拝をささげる日です。
 新約聖書では、再び地上に来られる主イエスを花婿、教会を花嫁にたとえている箇所があります。(マタイによる福音書25章1-13節p52 / ヨハネの黙示録22章16-17節p519等)
 主の再臨を待ち望みつつ、地上でそれぞれに与えられた務めを果たしてまいりましょう。