イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」マタイの福音書9章12-13節 (p15)
序 論)主イエスは中風の人を癒された後、別の場所に向かわれました。(9)
その時、主はマタイが収税所に座っているのを見られます。(マタイは後にこの福音書を記した。)
主イエスの言行を通して示されることは…
本 論)
1.主はマタイを招かれる
当時、取税人はローマ帝国側に加担する者とみなされ同胞のユダヤ人からも嫌われ、軽蔑されていました。
それまでマタイは主イエスとお出会いしたことがあったのかもしれませんが、そのことについては何も記されていません。
マタイの事情や心の内も記されていません。
主イエスは収税所で仕事をしていた彼を招かれました。(9)
主から御声をかけられたマタイはすぐに立ち上がって主に従いました。
マタイの新しい人生の歩みがこの時から始まったのです。
その後、ある家で食事会が開かれました。
マルコの福音書ではその家は「レビ(マタイの別名)の家」と記されています。(マルコの福音書2章15節p68)
彼が主イエスや弟子たちを食事会に招いたと考えられます。彼は出席者たちに主イエスがどんなお方か、また主に従う喜びを証ししたことでしょう。
同じ喜びと感謝の席に大勢の「取税人たちや罪人たちが」いました。(10) 主イエスは彼らと共に楽しみつつ、食事をされたことでしょう。
ここでの「罪人」(10)は、伝統的なユダヤ教の慣例(食物規定等)を就いている職業等の理由で守れない人たちに対して、パリサイ人たちが軽蔑を込めて使っていた言葉でした。
2.主は罪人を招かれる
パリサイ人たちは取税人や罪人たちと全く交わりを持とうとしませんでした。
パリサイ人たちは彼らと一緒に食事をされる主イエスを 批判するため、弟子たちに告げます。(11)
パリサイ人たちの批判を聞かれた主は彼らに答えられます。(12)
ここで主イエスはご自分を医者にたとえておられます。
パリサイ人たちは病人にたとえられた取税人たちに手を差し伸べようとしませんでした。
主は旧約聖書のホセア書の言葉を引用し、神様の御思い を語られます。(13)(ホセア書6章6節p1540)
このホセア書で言われる「神を知る」は知的に知ることではなく、神様の御思いに共感し、神様との交わりを深めていくことです。
預言者ホセアを通して神様が問うておられるのはイスラエルの民のあわれみ深い神様に対する誠実でした。
主イエスは取税人や罪人たちの友となることが、あわれみ深い神様の御思いにかなうことであることを示されたのです。
ここでの「正しい人」(13)はパリサイ人たちのように自分の罪に気づかず、自分たちは正しいと思い込み、取税人たちを見下している人のことです。
彼らは形式的に律法や慣例を守っていましたが、あわれみ深い神様に心を向けようとしなかったのです。
彼らが「行って学ぶべき」ところは主イエスのみもとでした。(ここで言われた「行って学びなさい」(13)は当時のラビ(ユダヤ教の教師)やパリサイ人たちが用いていた常套句。) 彼らは主イエスの招きに応じようとしませんでした。
ここで言われる「罪人」(13)は、神様から心が遠く離れている人という意味だけでなく、神様の御前に自分の罪を認め、悔い改めた者という意味も含んで用いられています。
結 論) 本当は神様の御前では、すべての人が罪人なのです。
ここでご自身を医者にたとえられた主イエスは、罪という病に苦しむ私たちを罪から救うために私たちのもとに来てくださったのです。
そして、主は十字架で死なれ、復活されました。
主イエスを神の御子、救い主と信じる者は罪から救われるのです。
主は今も「わたしのもとに来なさい」(マタイの福音書11章28節p21)、「わたしについて来なさい」(9)とすべての人を招いておられます。
主が私たちをも招いておられることを感謝し、さらに主のみもとに近づいてまいりましょう。
さらに主に従う者とならせていただきましょう。