マタイの福音書9章1~8節

「…『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。マタイの福音書9章5-6節 (p15)

序 論)主イエスはガリラヤ湖南東側のガダラ人の地で悪霊につかれた人を助けられました。(8章28-34節)
 その後、主イエスは弟子たちと共にカペナウムに戻られます。(1)
 そのとき起こった出来事と主イエスの言行を通して示されることは…

本 論)
1.主は彼らの信仰を見られた
 主イエスがカペナウムの町に戻られたことを聞いて、多くの人たちがある家に集まって来ました。
 そこで主は集まった人々にみことばを語っておられました。(マルコの福音書2章1節p67)
 そこに、中風で動けなくなっていた人を四人の男性が寝床のまま運んで来ました。(2ab)
 この四人は病人の友人だったと考えられます。
 彼らは病んでいるこの人を何とかしてあげたい、という一心で主イエスのおられる家に連れて来たのです。
 ところが、その家にはすでに多くの人がいて彼らは主に近づくことができませんでした。 (マルコの福音書2章2節p67)   
 けれども彼らはあきらめず、中風の人を「床」(担架のようなもの)に乗せたまま、階段を上って、屋根に穴を開けました。そして、主イエスのおられるところに、病人をつり降ろしたのです。(マルコの福音書2章4節)
 その様子を見られた主イエスは彼に御声をかけられました。(2cd)
 「しっかりしなさい」の原語は「元気を出しなさい」(新共同訳)とも訳される言葉です。
 主イエスの宣言を聞いた律法学者たちは「この人は神を冒瀆している」と心の中で思いました。
 主は彼らの思いを見抜かれ、語られます。(4)
 罪の赦しの宣言は神様だけにしかできないということは間違っていません。しかし、ここで主イエスが「悪いこと」と言われたのは、彼らが主イエスを神の御子、救い主として受け入れず、主には罪の赦しがお出来になると信じていないことでした。

2.主は地上で罪を赦す権威を持っておられる
 主イエスは律法学者たちに問われます。(5)
 「罪の赦しと病のいやしとどちらが易しいか」という問いに対する彼らの答えは「罪の赦し」だったでしょう。
 罪の赦しは口先でも言えるけれど、病のいやしは「起きて、歩く」という目に見える結果が必要だからです。
 しかし、本当は人の罪を赦すことの方がはるかに難しいのです。
 主イエスは彼らに答えを示されず「…人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために…」と言われ、中風の人に御声をかけ、命じられました。(6)
 主は中風の人を立ち上がらせられました。(7)
 主は病の癒しによって神の力を示されました。
 こうして、主イエスはご自身が罪を赦す権威を持っておられることが真実であることを明らかにされたのです。
 主イエスのなされたことを見た群衆は恐れを覚え、神様を崇めました。(8)

結 論) 主イエスがここで言われる「罪」という言葉は原語では複数形です。
 私たちの心には、もろもろの罪があります。それが具体的な言葉や行動となって現れます。
 イエスは、すべての人の罪を赦すために、地上に来られ十字架にかかられました。
 そして、主を神の御子、救い主と信じる者に罪の赦しを与えてくださいました。
 今回の箇所は、教会の姿を象徴的に示しています。
 教会は主イエスによって罪赦された者たちの集まりです。
 今も教会において、みことばと聖霊によって罪の赦しが宣言されています。
 主は「彼らの信仰を見て…」(2)罪の赦しを宣言されました。
 主は、私たち一人ひとりが日常の中で、ご自身に対する信仰を持って歩むことを願っておられます。
 そして、主は今も私たちを招かれ、私たちと共に歩むことを願っておられるのです。(マタイの福音書11章28-30節p21)
 私たちの様々な悩み苦しみ、問題や課題を主イエスのみもとに持っていき、解決や導きを主に祈り、求めましょう。
 主と共に歩み続けてまいりましょう。