マタイの福音書7章21~29節

ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。  マタイの福音書7章24-25節 (p12)

序 論)
主イエスは山上の説教の中で天の御国の民とされた者(キリスト者)の生活について語られました。
 狭い門から入ること、偽預言者たちに警戒することを語られた(7章13-20節)後、主はさらに語られます。
 主の山上の説教の最後の箇所を通して示されることは…

本 論)
1.父なる神のみこころを行う者
 主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼びかけ、告白する者がみな天の御国に入るのではありません。(21)
 父なる神様のみこころを行う者がそこに入る、と主は言われます。
 主の名によって預言し、悪霊の追放や奇跡のようなわざをなしたとしてもそれが自分を誇り、我を通す手段となるだけなら、それは父のみこころを行うことにならず、「不法を行う者」となってしまいます。(21-22)
 そのような者に対して、主は「…わたしから離れて行け」 と厳しい、さばきのことばを告げられます。
 父なる神様のみこころは、「狭い門から入る」(悔い改め、主イエスを信じ、従う)ことです。(13)
 主イエスを信じ、従う者は、自己中心的な生き方から解放され、父なる神様のみこころを行う者に変えられていくのです。
 しかし、当時の宗教指導者たちは、ここで主が語られる「偽預言者たち」(15)や「不法を行う者たち」(23)となっていました。彼らは父なる神様のみここころを知ろうとせず、主イエスを受け入れないで、かえって亡き者にしようとしたのです。

2.キリストを土台とする
 続いて主イエスは山上の説教(マタイの福音書5章~7章)の結びとして二種類の「土台」に家を建てた人のたとえを語られます。(24-27)
 「わたしのこれらのことば」(24)は5章から語られてきた山上の説教を指して言われています。
 山上の説教の「ことばを聞いて、それを行う者」(24)と主が言われるように、みことばを聞くだけでなく、それを行うことが大切です。
 主イエスは私たちの人生を「家」に、人生の土台を「岩」 や「砂」にたとえて語られました。
 建物(家)の土台は隠れて見えません。しかし、とても大切です。
 「岩の上に…」(24)は揺らぐことのない堅固な土台を意味しています。
 この「岩」とは、主イエスのみことばであり、主ご自身です。 (申命記32章4節p373) (コリント人への手紙 第一 3章11節p329)
 このように「岩の上に家を建てる」とは、主イエスのみことばを聞いて行うことであり、主イエスに従うことです。
 しかし、この家(人生)にも試練の時がやって来ます。
 屋根には「雨」、土台には「洪水」、壁には「風」(大嵐) にたとえられているような様々な試練が私たちを襲います。(25)
 それでも倒れることがないのは、岩(キリスト)を土台としているからです。
 逆に砂の上に家を建てるのは、みことばを聞いても行わないことであり、主イエス以外のものを頼みとすることです。
 主イエスは山上の説教を神の権威をもって語られました。
 そして、群衆はその教えに驚きました。(28-29)

結 論) 主イエスは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人…」とも言われています。 (ルカの福音書6章48節p123)
 ここで「深く掘り下げ…」と言われているように私たちは山上の説教のみことば、聖書のみことばをさらに深く聞き続けてまいりましょう。
 神様はみことばを聞き、主イエスを信じる者を新たに生まれさせてくださいます。
 そして、聖霊によってみことばを行う者に造り変え続けてくださるのです。
 岩なるキリストを人生の確かな土台とし、主イエスに依り頼んで歩み続けましょう。