狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 マタイの福音書7章13-14節 (p12)
序 論)主イエスは人をさばいてはいけないこと、父なる神様に「良いもの」を求めることを語られました。(7章1-12節)
続いて主は、ご自身に従う者としてのふさわしい歩みについて語られます。
主のみことばを通して示されることは…
本 論)
1.いのちに至る道
ここで主イエスが言われている「狭い門」の「狭い」はたくさんの人たちが入りたがるので、入るのが難しい、という意味ではありません。(13) (日本では、入試や就職等のときに「狭い門」(「狭き門」文語訳)という言葉が使われる時がある。)
主が言われる「狭い門」は「存在することに気づかない門、知っていても入ろうとしない門」のことです。それは狭いけれども、「いのちに至る門」だと言われます。(14)
逆に「大きな門」は多くの人が入り、「その道は広い」
けれども、それは「滅びに至る門」だと言われます。(13) この狭い門は「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」と言われる、主イエスへ至る門です。(ヨハネの福音書14章6節p213)
そして、その門は、悔い改め、神様に立ち帰るところでもあります。
この門から入るとは、主イエスを信じ、従うことを意味しています。
私たちが人生の歩みの中で、何かのことで苦しんだり悩んだりしたとき、あるいは心の中に何かの「欠け(満たされないもの)」を感じるとき、この「狭い門」に、そして主イエスに近づいているのです。
2.良い木は良い実を結ぶ
続いて主イエスは偽預言者に警戒するよう、語られます。 (15)
外見は無害な羊のように見えても、彼らの内側(現実)は「貪欲な狼です」と言われます。(15)
旧約の時代も、新約の時代も、自分の利益のために信徒たちを利用する偽預言者や偽キリストがいました。(エレミヤ書14章14節p1315、マタイの福音書24章24節p51)
主イエスは「彼らを実によって見分けることになります。・・・」(16)と語られるように、ぶどうといばら、いちじくとあざみは実のあるなしで区別できます。
また同じ実でも、良い実と悪い実は区別できます。
良い木はみな良い実を、悪い木は必ず悪い実を結びます。(17-18)
そして、主は偽預言者たちを「良い実を結ばない木」にたとえて話されます。(19-20)
そのような木は腐れを周囲に広げることがないように「みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(19)
同様に、偽預言者たちも、神様によってさばかれる時が来るのです。
私たちは、偽預言者たちに惑わされないよう、正しい福音やキリスト教の教理を知り、理解を深めていきましょう。
結 論)主イエスご自身が私たちを罪から救うために、最も狭い道、十字架への道をまっすぐに進んでくださいました。
そして、十字架で死なれ、復活し、私たちを罪から救ってくださったのです。
様々なきっかけで聖書のみことばに触れ、教会に来られ 主イエスを知った人たちは「狭い門」に入るように招かれているのです。
「狭い門」をくぐった人、すなわち主イエスを信じる幸いに与った人は、主イエスに従う者です。
主を信じ、従うことが「いのち(永遠のいのち)」に生かされる道です。
また「狭い」には、自分を小さくすること、すなわち謙遜な心を持ち続ける、という意味が込められています。
日々、聖書の言葉を通して神の御声を聞き、父なる神様に祈り、主イエスとの交わりを持ち続けましょう。
一人でも多くの人がこの門に気づき、入られることを祈ります。私たちはたとえ少数であったとしても、主を信じ
罪赦された感謝と喜びをもって、主に従い続けてまいりましょう。
(参考)
「狭き門より入れ、滅(ほろび)にいたる道は大きく、
その路(みち)は広く、之(これ)より入る者おほし。
生命(いのち)にいたる門は狭く、その路(みち)は細く、
之(これ)を見出す者すくなし。」
(マタイの福音書7章13-14節文語訳)