さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。 マタイの福音書7章1-2節 (p11)
序 論)この7章は主イエスが語られた山上の説教が記されている最後の章です。
前の章に続いて、主イエスに従う者の生活態度について語られます。
続いての主のみことばを通して示されることは…
本 論)
1.神のさばきと人の罪
「さばいてはいけません」(1)の「さばく」はここでは「非難する」、「咎(とが)める」という意味です。
これは批評や善悪の判断をしてはいけない、ということではありません。
主イエスが禁じておられるのは、人を自分の尺度で判断したり、決めつけたりすることです。また、自己を正当化するあら捜しや、優越感を伴った批判です。
他人を批判する基準に従って自分も評価されます。
「…自分がさばく、そのさばきでさばかれ、…」(2)は当人が誰によって「さばかれる」のかは明示されていません。最終的には神様によって正しいさばきがなされます。
続いて主は自分の欠けに気づかず、人を批判する心の矛盾を、たとえを用いて語られます。(3-5)
「ちり」(3)は原語では「微小な乾いた木片」です。(新共同訳では「おが屑(くず)」と訳されている。)
「梁(はり)」は「木の横材」です。(新共同訳では「丸太」 と訳されている。)
主イエスは、自分の多くの欠けに目を閉じながら、他人のそれは、よく見え、善意を装い「忠告」するのは「偽善者」である、と厳しく指摘されます。(5)
「自分の目には梁がある…」(4)、「まず、自分の目から梁を取り除きなさい」(5)で言われる「梁」は神様のから見た罪を意味しています。
私たちは、自分の内に罪があること、自分の側に過ちがあることを認めても、自分の力で罪を取り除くことはできません。
私たちの罪を取り除くことができるのは、主イエスの十字架による贖(あがな)いによってのみです。
2.父なる神に求めなさい
続いて主イエスは弟子たちに警告されます。(6)
「聖なるもの」は「神に属するもの」のこと、「真珠」は「福音」と受け止めることができます。ここでの「豚」や「犬」は、福音を受け入れず、あざける者たちを指して言われていると考えられます。
人をさばかず、健全な識別力をもって判断したり、忠告することは簡単ではありません。その困難な課題を果たすためにも、主イエスは、神様に求め続け、捜し続け、たたき続けなさい、と言われます。(7-8)
しかし、大切なのは人の求めの熱心さではなく、求めに応えてくださる天の父なる神様です。
人間の父親でさえ、自分の子どもに求めるものを与える とすれば、なおさらあなたがたの天の父は「良いもの」を与えてくださる、と主は語られます。(9-11)
ルカの福音書では「良いもの」とは「聖霊」だと言われています。(ルカの福音書11章13節p137)
最後に「黄金律」と言われる、みことばを語られます。 (12)
聖書以外の古今東西の教えは、「他の人からされたくないことは自分もするな」という消極的な形です。(「己の欲せざるところ他人に施すことなかれ」『論語』等)
主イエスは、天の父から良いものを受ける者として、自分も積極的に、他の人に良いものを与えるように命じられます。
その命令こそ「律法と預言者」(旧約聖書全体)(12)を要約するものです。それは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マルコの福音書12章31節p94)と同じ意味が込められた命令でもあります。
結 論)「はっきり見えるようになって」(5)は「霊的な目」が開かれることです。
主イエスの十字架と復活によって罪赦されたものは、自 分の内の罪がはっきりと見えてきます。
「さばいてはいけません。」とのみことばをいただいても、私たちは人をさばいてしまう罪ある者です。
しかし、そのような罪人を赦し、さらにきよめてくださる主の十字架と聖霊の恵みを知るのです。(ローマ人への手紙5章20節p305)
主の恵みを覚え、赦された者であることを感謝し、主イエスに従い、神と隣人を愛する道を歩んでまいりましょう。
(参考)
○『愛あるところに神あり』トルストイ(1828-1910)
(ロシアの作家)
〇アレクサンデル・セウェルス(209-235)
(ローマ帝国皇帝)