まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。 マタイの福音書6章33-34節 (p11)
序 論)この6章は主イエスが語られた山上の説教が記されています。
主イエスは神の御前でどうあるべきか(1-18)、神に対してどう歩むべきか(19-24)を語られました。
続いての主のみことばを通して示されることは…
本 論)
1.あなたがたの天の父は養ってくださる
私たちの「いのち」や「からだ」は神様が与えてくださったものです。(25)
これは人間として当然しなければならない、家族等の将来のための配慮、準備を否定しておられるのではありません。
ここで言われている「心配」は、神様への信頼を否定するような思い煩いのことです。(「心配する」(「思い煩う」(口語訳)(25)の原語は「心がいろいろなものに裂かれて乱れること」です。)
食べ物や着物といった衣食住に必要なより小さなものも神様が備えてくださいます。
「空の鳥」は種蒔き、刈り入れ、倉に納めることもしません。(26)
それでも天の父なる神様は私たちを養っていてください ます。
人間は心配したからといって「自分のいのちを少しでも 延ばすこと」はできません。(27)
私たちのいのちそのものが神の御手のうちにあります。
「野の花」は「働きもせず、紡(つむ)ぎもしません」が神様が美しく装ってくださいます。(28-30)
たちまち枯れてしまう草でさえ、かつてのイスラエルの王ソロモンの栄華に勝る装いが与えられています。(29) (歴代誌 第二 9章 p767)
それならば、父なる神様は鳥や草よりはるかに大切なご自身の子たち(人間)を顧み、養われないはずがありません。
神様を忘れて心配するのは「信仰の薄い人たち」と主は言われます。(30)
2.まず私たちが求めるものは
続いて主イエスは「食べる」「飲む」「着る」ことは「心配しなくてよいのです」と言われます。(ここは原文では「心配するのは全くやめなさい」。)(31)
「もうこれからはそんな心配は一切やめなさい」と主は言われているのです。
なぜなら、心配は「異邦人」すなわち父なる神様を知らない人たちがすることです。(32)
異邦人は、自分に必要なものはみな自分で備えなければならないと考えて、懸命に生活のための物資を求めます
しかし、父なる神を知る者は神様が「これらのものすべ て」を備えてくださることを信じて生活します。
何かの問題や困難のあるときもそれに心が捕らわれてしまうのではなく、神様に心を向けることが大切です。
「神の国」(33)は「神様のご支配」という意味です。
主イエスによって神の国は到来し、主イエスを信じることによって私たちは義とされました。 (マルコによる福音書1章15節p65)
十字架の死と復活によって主イエスは私たちを贖われました。そして主を信じる私たちは神の国に招き入れられたのです。
神の国と神の義を求めるとは私たちの救い主、神の御子イエス様を求めることです。
イエス様を信じて罪赦され、義とされた使徒パウロは生涯、「ただ一つのこと」としてキリストを追い求めました。 (ピリピ人への手紙3章10-14節p398)
結 論) 主イエスは天の父なる神様により頼んで歩むことを教えてくださいました。
空の鳥を養い、野の花を美しく装われる神様は私たちの「天の父」です。
神の国と神の義を第一とするとき、衣食住のすべては添えて与えられます。
私たちの思い煩いを神様に委ねて歩みましょう。神様が私たちのことを心配してくださるのです。 (ペテロの手紙 第一 5章6-7節p471)
明日のこともその日の「苦労」もすべてを父なる神様の御手に委ね、主と教会に仕えてまいりましょう。(34)