マタイの福音書6章14~24節

自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。   マタイの福音書6章20-21節 (p10)

序 論)
山上の説教の中で主イエスは施し、祈りについて語られました。(1-13)
 主は続いて、赦し、断食、富に対する態度について語られます。
 主のみことばを通して示されることは…

本 論)
1.神の御前での断食
 主イエスは「主の祈り」の中の赦しを求める祈り(12)との関連で、さらに赦しについて語られます。(14-15)
 天の父なる神様の赦しをいただくことと人の罪を赦すことは分けることはできません。
 私たちは主イエスにより天の父から赦された者だから、人の罪を赦すことができます。そして、赦す者としてさらに自らの赦しを父なる神様に求めるのです。
 続いて主は断食について語られます。(16-18)
 当時のパリサイ人は、断食する自分たちの姿を人々に見せていました。
 善行である断食も「人に見えるように」(16)するなら偽善となります。断食は神の御前ですることです。
 主イエスは「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい」と、正しいありかたを教えられました。(17)
 次に主イエスは、富に対してどのような考え方をし、態度を取るべきかを語られます。
 主は「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。…」と言われます。(19) 地上で蓄えた宝は、高価な織物であれば虫がつき、金属の物はさびて価値を失います。
 当時は、盗人が家の壁(粘土を焼いて作ったもの)に穴を開け、盗んで行くこともありました。(現代も様々な形で、盗みの罪は行われ続けています。)
 そのようなはかない地上の宝ではなく、失われる心配が 全くない天に宝を蓄えなさい、と主イエスは語られました。                        (20)
 「地上に」富を蓄えれば、心はそこに束縛されます。
 しかし、「天に」富を蓄える生活であれば、心は神様に向かいます。(21)

2.神からの光をいただいて
 
 当時、「目」はからだの窓で、目が良い状態であるなら、光がそこから入って全身が明るくされる。しかし、目が悪いと全身が暗くなり病気になると考えられていました。
 主イエスは、このことにたとえて、霊的真理を示されました。(22-23)
 人の心が神様に向けられ、神からの光をいただき、天に宝を積むことに励んでいるなら、その全存在は輝くものとなります。
 しかし、地上の宝に執着するなら、心の目が曇らされ、神様との交わりがなくなり、光を失ってしまいます。
 続いて主は「だれも二人の主人に仕えることはできません」(24)と仰います。
 ここでの「二人の主人」とは「神と富」のことです。神と富との両者に仕えようとするなら結局、富に支配されてしまいます。
 「神」と「富」とを両立させようとする道は、貪欲という偶像礼拝や「闇」(23)に落ち込んでしまうのです。(コロサイ人への手紙3章5節p404)

結 論) 主イエスの十字架と復活によって、罪赦された私たちは、主イエスに心を向け、父なる神様に祈りつつ歩む者とされています。
 主にあって、私たちは地上の宝への執着からも解放されているので、それを善意によって施しのために用いることができます。
 それは天に宝を積むことであり、神様が喜ばれることです。(テモテへの手紙 第一 6章6-11節p423)
 また私たちは、主イエスから恵みの光をいただき、「世の光」とされています。
  「あなたがたは世の光です。」(マタイの福音書5章14節p7)
 主が与えてくださる「満ち足りる心の伴う敬虔」をもって神様に仕えてまいりましょう。