マタイの福音書5章1~8節

あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。…あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。マタイの福音書6章4、6a節 (p9)

序 論)
マタイの福音書の6章は前の章に続いて主イエスの「山上の説教」のみことばが記されています。
 今回の箇所では当時のユダヤ人たちの宗教生活の中心であった施しと祈りについて語られています。
 主のみことばを通して示されることは…

本 論)
1.天の父が報いてくださる

  主イエスは、神様を「父」と親しく呼ばれました。
 主は善行を「人に見せるため」にしないように、と言わ れます。(1) そのような動機ですることは天の父なる神様から報いを受けられません。
 ここでの「偽善者たち」(2)は特に当時のパリサイ人たち を指して言われています。(マタイの福音書5章20節p7)
 「ラッパを吹いて」(2)は、人目につくための何かの手段 のたとえです。彼らは人の誉れを受けることが大きな動機になっていたのです。
 次に主イエスは、施しをする人を右の手、他人を左手にたとえて語られます。(3)
 人に知られないように、人からの報いを受けようとしないで施しをすることを勧められます。
 そうすれば、「隠れたところで見ておられる」お方、天の父なる神様が報いてくださいます。(4)
 次に主イエスは祈りについて語られます。(5)
 祈りは神様の御前での人間の最も大切な営みの一つです。 しかし、祈りは自己顕示の手段となることもあります。
当時、「会堂や大通りの角」(5)が人の大ぜい集まる目立つ所でした。
 パリサイ人たちの祈りは、人からの賞賛を受けるための

 祈りになっていました。

2. 隠れたところにおられる父

 さらに主イエスは祈りは「家の奥の自分の部屋」で「戸を閉めて」、「隠れたところにおられるあなたの父」である神様にささげなさい、と言われます。(6)
 ここでは神様を「あなたの父」と言っておられます。
また神様はどこにでもおられるお方なのに、どうしてここでは「隠れたところにおられる」と仰るのでしょう。
 それは、弟子たち(私たち)が父なる神様と自分(私)との 「一対一」の交わりを大切にし、私たちが神様と親密な深い交わりを持つことを願っておられるからです。
 6節前半の文語訳(明治元訳聖書)は「なんぢ祈る時は 厳密(ひそか)なる室(へや)に入(い)り戸を閉じて隠微(かくれ)たるに在(いま)すなんぢの父に祈れ」です。
 ここから神様の御前に出て一人ひそかに祈る「密室の祈り」という言い方が生まれたそうです。
 そして、ここで言われている大切なことは祈る場所よりも、父なる神様に心を向けて祈ることです。
 次に言われる「同じことばをただ繰り返す」のは、真の神様を知らない異邦人が無意味なことばを繰り返すことや、形式的習慣的な祈りのことです。(7)
 神様は「あなたがたの父」であり、私たち一人ひとりを 親しく知っておられます。(8)
 神様に心を向け、信頼し、心を込めて祈りをささげましょう。

結 論)主イエスの十字架の死と復活による救いの恵みにより、主を信じる私たちに御子イエス様の御霊(聖霊)が与えられています。(ガラテヤ人への手紙4章6節p379)
 その恵みによって私たちは神の子とされ、父なる神様に祈ることができるのです。
 「私の父」であられる父なる神様に一人で祈る祈り、そして「私たちの父」でもあられる神様に皆と心を合わせてささげる祈り(礼拝や祈祷会等)、どちらも神様からの恵みです。
 聖霊によって、主イエスの御名を通して父なる神様に 祈り続けてまいりましょう。


 (参考)

   『内なる生活 ―密室の祈り―』
   アンドリュー・マーレー(1828-1917)
         (南アフリカのオランダ改革派の牧師)

   「少ない言葉と、多くの思いがキリスト者の祈り、
   少ない思いと多くの言葉が異邦人の祈り。」
   マルティン・ルター(1483-1546)の言葉。