ヨハネの福音書18章1~11節

イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。ヨハネの福音書18章4-5節 (p.222)

序 論)
主イエスが十字架にかかられる前日(木曜日)の夜、主は弟子たちと過越の食事をなさいました。
 途中でイスカリオテのユダは外に出ていきます。(ヨハネの福音書13章1-30p211)
 「夜」は闇の力、罪の力を象徴しています。
 主は弟子たちに語られ、彼らのため父なる神様に祈られました。(ヨハネの福音書13章31節~17章26節)
 その後、主と弟子たちはキデロンの谷の向こうにある園 に向かわれます。(1)
 そこで起こった出来事と主イエスの言行を通して示され ることは…

本 論)
1.わたしがそれだ
 そこは主イエスが弟子たちと共に集まり、祈っておられた場所でした。(2)
 イスカリオテのユダは一隊の兵士と宗教指導者たちが送った下役たちを連れ、やって来ます。(3)(「一隊の兵士」は600人のローマの兵士たち)
 主イエスは「自分に起ころうとしていることをすべて知 っておられ」ました。(4)
 主は彼らの前に進み出られます。(4)
 そして、「だれを捜しているのか」と問われます。
 彼らは「ナザレ人イエスを」と答えます。(5a)
 主イエスは自ら「わたしがそれだ」と言われます。(5b)  (「新共同訳聖書」の訳は「わたしである」ギリシヤ語原文は「エゴー・エイミ」英語の聖書では「I am.」(アイ・アム))
これは旧約聖書(ヘブライ語)出エジプト記3章14節(p102)で、神様がご自身の名について語られた「わたしはある」の原文と同じ意味を表す。)
 福音書記者ヨハネは、主イエスのこのみことばによって主が神ご自身であることを証ししています。
 このとき、主を捕えに来た兵士や下役たちは、「後ずさりし、地に倒れた」のです。(6) (ここでの「倒れる」と「ひれ伏す」(マタイの福音書2章11節p2)とは原語では同じことば)
 彼らは神の御子イエス様の威厳に圧倒されました。

2. 父がくださった杯を飲まれる
 主イエスはもう一度、兵士や下役たちに尋ねられ、彼らは答えます。(7)
 主は「…わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい」(8)と言われました。
 「この人たち」は主の弟子たちのことです。主は自ら進み出られましたが、彼らを守ろうとされたのです。
 9節の引用は、かつて主イエスが父なる神様に祈られた ことばです。(ヨハネの福音書17章12節p220)
 このとき、弟子のシモン・ペテロは剣を抜いて、「大祭司のしもべ」マルコスに切りかかりました。(10)
 このペテロの勇敢ではあるが衝動的な行為は、主イエスのみことばの成就をはばむものでした。
 主イエスは彼の手をとどめられ、「剣をさやに収めなさい。…」と言われました。(11)
 ここで主が言われた「父がわたしに下さった杯を飲む」(「杯」は神の罪に対する怒りとさばきを象徴している)はご自身が父なる神様の御計画に従われ、十字架で死なれることを意味していました。(マタイの福音書26章39節p57)

結 論)このときのペテロは自分の力に頼り、闇の力、悪の力に立ち向かおうとしました。しかし、主イエスはそれをとどめられました。(10-11)
 主イエスは、兵士や下役たちが倒れてしまうほどの神の権威と御力をもっておられました。しかし、それらを用いられず、自ら無力な罪人の立場にたたれ、父なる神様にすべてをゆだねて十字架に進まれました。
 闇の力、悪の力が完全に打ち破られる道はただ一つ、それは主イエスご自身が神の怒りの杯をお飲みになることだったのです。
 主は杯を飲まれ(すべての人のために十字架で死なれ)、救いを成し遂げてくださいました。
 主イエスを信じる私たちは罪の闇から解放され、光に移されました。(エペソ人への手紙5章8節p390)
 主イエスに従い、主の光の中、愛と平和の道を歩み続けましょう。