黒磯教会 聖会 全体の主題「共に永遠に」
説教者:郷家一二三師(日本ホーリネス教団 坂戸キリスト教会牧師)
午前の礼拝説教要旨
マタイの福音書1:18-25、18:15-20、28:16-20
今回の聖会の主題は、「共に永遠に」としました。「共に」とは、マタイの福音書に語られている、「主イエス・キリストと共に」です。「永遠に」とは、ヨハネの福音書に語られている「永遠の命」に活かされることです。神の子である主イエスは、十字架で死なれ、三日目にお甦りになられました。私たちも、罪が赦され、神の子とされました。真の神の子によって、父なる神に赦されて、神の子とされ、永遠に生きるものとされています。ここに主イエスが与えてくださる聖化の恵みが示されています。
まずマタイの福音書の第1章の、「インマヌエル」の神として来てくださった主イエスに注目します。聖化とは聖霊なる神のお取り扱いを受けて、自分中心の自我に死んで、聖霊が私たちの内に生きて働き続け下さる「第二の転機」です。この危機的な転機により、信仰の主体は転換します。主イエス・キリストが救い主として来られた。インマヌエルから始まっている恵みです。私たちは信じ従うだけです。来てくださって、共に歩んで下さる主イエスに。
第18章では、罪の悔い改めの祈りの場に共にいる、と主イエスは言われます。聖化されたら罪を犯さなくなるのではなく、罪を真実に悔い改め、心から赦し合うことが始まるのです。赦されていることが、どんなに嬉しいことか、お互いに分かち合いましょう。自分のような罪びとが、赦されて、なお活かされ受け入れられている。教会の中で始まる恵みです。
そしてマタイの福音書は最後の第28章で、教会の全ての働きの中に、共に世の終わりまで歩んで下さるという、主イエスの約束で終わっています。この約束は今も教会に与えられています。出て行ってすべての民を主の弟子とする。父と子と聖霊の名で洗礼を授ける。聖書を教えて共にそのように生きる。日々のキリスト者の生活と、黒磯教会の歩みの中に主は共におられるのです。
午後の聖会説教要旨
ヨハネの福音書11:1-53
ラザロの復活の箇所は、一度で説教できないと思われています。聖会だからこそ、主題を明確にし、一度で説教できると思うのです。主題は「主イエスと永遠に歩む聖化」です。信じるなら神の子とされ、愛されている者とされます。死んで終わらない。「この病気は死で終わるものではない」のです。「死に至る病」とは「絶望」であるとキルケゴールは言いました。ラザロは主に愛されています。ラザロも、姉たちも、主を愛しています。愛している者たちを「絶望」のままにされる方ではないのです。人間にはできない復活でも、主イエスにはおできになるのです。主は最初から「友のラザロを起こしに行かれる」おつもりだったのです。父なる神に祈りつつ。
先週、高校時代の友人が孤独死をしました。その妹さんが教会員ですので、彼を訪問したこともあります。数日前に、20人を超える親族が集い、正月の祝いを彼の家でしたばかりです。死の現実が、二人の姉と二人の妹を襲いました。すぐに訪ね、共に涙しました。もしここに、主イエスがいてくださったら。そう思いました。結婚もしないで、一人で田を耕し、実りを分け与え、一人で行ってしまいました。
十字架による罪の身代わりの救いは信じるが、復活はどうも分からないという方が多いのです。私もそうでした。死の現実の重みは厳しく、残酷で、だれも逃れられないのです。私が死ぬときには、主イエスは助けてくださらないのではと思い込みやすい。違います。主は、最初からラザロを死から起こそうと決めておられました。父なる神に祈っておられました。だから墓に向かって「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれたのです。「神の栄光のため」「神の子が栄光を受けるため」です。この「栄光」とは、この日から始まった、主を殺そうとする企み「十字架」に続くのです。私たちは、主イエスと永遠に歩むのです。死ですらも、神と神の子と聖霊との、神との結びつきを切ることはできません。名を呼んで、呼び出してくださいます。死は永遠の命の始まりと変えられたのです。