あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることが できません。…このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
マタイの福音書5章14-16節(p.7)
序 論)
イエス様は弟子たちに「あなたがたは地の塩、世の光です」と語られました。この譬えは「山上の説教」(「山上の垂訓」)の「八福の教え」に続いています。「義のために迫害されている者は幸いです」とおっしゃった後、主を信じる者を迫害する世にあって塩気を失わず、恐れないで輝きなさいとイエス様は弟子たちに語られるのです。それは私たちへの語りかけでもあります。
主の御側で私たちも聞いて参りましょう。
本 論)
1、あなたがたは地の塩です(13)
主イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩です」(13a)と言われました。「あなたがたは」との言葉には強調が込められています。「あなたがたこそ 地の塩です」と。そして「地の塩になりなさい」ではなく「既に地の塩なのだ」と語られます。主を信じ従う者の内には塩気が与えられているのです。
塩には食べ物に味を付けることと、腐敗を防ぐという役目があります。
まず、塩は丁度良い塩加減になって初めて、料理を引き立たせます。塩は主役ではありませんが周りに溶け込んでその力を発揮します。
キリスト者は地の塩として生活の中で周囲の人たちを生かすため自分を用い、塩気を失わないで人々の良い所を引き出していく役目が与えられています。
また、当時は冷蔵庫もありませんから、魚や肉や野菜を塩漬けにして腐敗を防ぎ、保存食糧として収穫の無い時に備えました。
「もし塩が塩気をなくしたら・・・外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(13b)と言われました。イスラエルでは、塩を得るために岩塩を用いており不純物が多く混じっていました。麻袋に入れている間に水分を吸って塩分が流れ出て塩気が失われてしまいました。そうなると残ったものは塩の役目を果たしません。
キリスト者がこの世の悪に妥協してしまうならば塩気を失ってしまいます。
しかし、私たちは主イエスの恵みによって「地の塩」とされています。汚れや争いの絶えないこの世に在って、問題が目の前に立ちはだかり失望しそうになってしまいそうな時も流されることなく、主の助けを祈り、不正に対処する知恵や「それは間違っている」と言う勇気を持たせていただきたいものです。
2、あなたがたは世の光です(14-16)
塩の場合と同様にここでも弟子たちに「あなたがたこそ世の光なのだ」(14a)と強調しておられます。
マタイは4章15-16節(p.5)でイザヤの預言を引用し、このことばがイエス様によって成就したことを記しています。主こそ、世の光としてこの地に来てくださったのです。
また、主イエスは「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と語られました(ヨハネ8章12節 p.195)。
弟子たちは喧嘩をしたり恐れて逃げ出したりするような弱い者たちで、自分たちの中に光るものは持っていませんでした。しかし、主イエス・キリストといういのちの光を持っていたので、その光を反映することができる者とされたのです。同様に主に従う私たちもキリストを指し示す模範として神がこの世に置いてくださるのです。(14b)
当時、ランプを消す時は、吹き消さず、臭いが出ないように升をかぶせて消しました。ですから輝いている火(光)を消したり隠したりするようなことをしないで高く掲げるように言われています。(15)
そして、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(16)(「光は輝けよ」「光に輝いていただけ」原文により近い訳)と、自分で覆い隠したり無理に消そうとしない限り内から溢れ出ようとするキリストの光は輝きを失うことはありません。
社会の中でクリスチャンであることを隠したりせず、機会が与えられた時に「イエス様によって今の自分になった」と証しできるように備えたいものです。そして神に栄光を帰する者とならせていただきましょう。(16)
結 論)
イエス様は、私たちを地の塩・世の光として尊んでくださっています。家庭内で地域社会で世界で私たちは塩のように溶け込み人々に平安と喜びをもたらす存在として、また、希望と救いをもたらす輝く光として用いていただきましょう。それは私たちの内におられる主に支えられているからこそ、その使命を発揮することができます。
私が今ここに生かされているのは、主から託された使命を果たすためですと、主に尊ばれ、用いられていることを喜び、
主の恵みに応答して歩みましょう