マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」
ルカ1章46-48節 (p.108)
序 論) 御使いガブリエルのお告げを受けたマリヤは、ガリラヤから、直ちに、「ユダの町」(ナザレから南へ約105㎞辺りにあった町という説がある)(39)にいるエリサベツに会いに行きました(40)。エリサベツとのやりとりとその後に主にささげた賛歌を通して示されることは…
本 論)
1.主をあがめ、喜ぶ
マリアが祭司ザカリヤの家に入り、妻エリサベツに挨拶をしたとき、エリサベツの胎内の子(後の洗礼者ヨハネ)がおどりました(41)。そして彼女は聖霊に満たされて語り始めました。まず、マリアへの祝福の言葉を告げます(42)。
エリサベツはマリアの胎内の子(イエス様)は「私の主」(43)であると知っていました。そのことを示したのは、聖霊と彼女の胎内の子でした(44)。
このようにエリサベツは、マリアの胎内に宿っている子 の故に年若い村娘である彼女に対して敬意を示しました。 そして、マリアに向かって「…、幸いです。」と言います(45)。この言葉の通りマリアは「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人」(45)でした。
エリサベツの言葉を受けて、マリアは主を賛美しました (46~55)。歌い出しの「主をあがめ」(46)「あがめ」がラテン語では「マグニフィカート」で、賛歌はこの言葉から始まります。ですからこの「マリアの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれています。原語のギリシア語の意味は「大きくする」です。「主を大きくする」それが「主をあがめる」の元の意味です。この言葉から神様をあがめるためには、自分の小ささを認めてへりくだることが必要であることが示されます。
マリア自身がそうしていることが48節の言葉に現れています。ここでマリアは自分のことを「この卑しいはしため」と呼んでいます。それは社会的地位ではなく神様との関係において卑しい僕である自分ということです。このように主を大きくする、ほめたたえることは、神様の御前に自分を僕として低くすることです。
続いてマリアは「私の霊は私の救い主である神をたたえます。」(47)と賛美します。この「たたえる」は原語では「喜ぶ」という意味があります。この小さい者でしかない自分に神様が目を留めて下さり、その御力によって偉大なことを成され、みわざのために用いて下さる、マリアはその幸いを味わったからこそ、このように歌いました。
2. 私たちも「幸いな者」とされている
マリアの賛歌の言葉(46-55)は、旧約聖書のサムエル記上2章のハンナの祈りの言葉と似ている箇所があります。(サムエル記上2章1、8節 p.480) また申命記や詩篇の言葉と重なる言葉があります。(申命記10章21節 p.334、詩篇103篇17節p.1041 等)マリアの喜びが、聖書の言葉と共に賛美となってほとばしり出てきたのです。このことからもわかるようにマリアは幼い時から、旧約聖書の言葉に親しみ、心に留め、祈り、主を賛美していたのです。
小さな者を用いて下さる神様のあわれみは、世々限りなく、主を畏れる者、神様を信じ、従う人々に及んでいきます。(50)
「心の思いの高ぶる者」(51)は、当時のヘロデ王や政治的指導者、宗教指導者たちのことです。「高ぶり」は彼らの姿、言動に表われているように、自らを誇り、自分は大いなる者だと思うことです。
私たちもかつては、神様を知らず、心おごる者、罪の中に生きていた者でしたが、聖書を通して、イエス様を知り、神様のご愛に触れ、自分の罪を示されました。神様が私たちに対し「その御腕で力強いわざを行われ」(51)、聖霊によって、罪を悔い改め、イエス様を信じる者とされたのです。自分を大きくしていた者から、神様を大きくする者へと変えられました。神様は今、私たちをも主のみわざのために用いて下さっています。
結 論)マリアは御使いの言葉を受け入れ(38)、救い主を身ごもりました。
イエス様を信じたときから、私たちの内には聖霊によって、救い主イエス様が住んでくださっています。主イエスを信じる者は誰でも主を内に持つのです。
主を信じ従い、主と共に生きる私たちも「幸いな者」です。マリアのように私たちも主を共に賛美する喜びを与えられています。
クリスマスを待ち望み、主を賛美しつつ、アドベントのときを過ごしましょう。
(参考)
英語 magnify 拡大する、賛美する、たたえる