その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。…」マタイの福音書5章1-3節 (p6)
序 論)マタイの福音書は5章から7章まで、主イエスの「山上の説教」のみことばが記されています。
最初に語られたみことば(1-12)は「八福の教え」と呼ばれています。これは「幸いの教え」でもあります。
この箇所を通して示されることは…
本 論)
1.幸いな人とは
主イエスは山に登られ、従ってきた群衆と弟子たちに教え始められました。(1-2)(4章25節)
最初に「心の貧しい者は幸いです。…」(3)と語られます。 「幸いです」という言葉は、原文では冒頭にあります。
3節前半は文語訳では「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。」です。
普通は「心の貧しい者」(3)や「悲しむ者」(4)が幸いだと思えません。
ではなぜ、主イエスはこのように「幸いです」と言われるのでしょうか。
主はこの「幸いの教え」の最初と後半で4章17節(p5)のときと同じ「天の御国」というみことばを語っておられます。 (3、10)
「天の御国」すなわち「神のご支配」は、主イエスの来臨(地上に来られたこと)によってもたらされました。
ですからこの教えは、主イエスとの結び付き(交わり)なしには意味を理解することはできません。
だから主だけが弟子たちにこれらの者が「幸いです」と 語られたのです。
「心の貧しい者」(3)は、心の狭い人、という意味ではありません。
ここでの「心」は神様との交わりを持つ人の「霊」や「魂」 という意味で用いられています。
「心の貧しい者」は自分の霊的な貧しさを知り、神様に対して心の飢え渇きを覚える人です。
それは、自分の正しさを誇らず、「心砕かれた者」です。(イザヤ書66章2節p1279)
その人はイエス・キリストに現わされた神様のご愛と恵みを知り、主イエスを通して、天の御国、神のご支配のもとに入れられるのです。そして、霊的渇きが満たされます。
2.主イエスによって与えられる「幸い」
「悲しむ者」は、自分の罪やこの世の悪を嘆き悲しむ人です。そのような人を神様が慰めてくださいます。(4)
主イエスは私たちの苦しみや悲しみをご存じの「悲しみの人」です。(イザヤ書53章3節p1259)
だからこそ、私たちは主に自分の悲しみを告げることが 出来、神様はそのように祈る私たちを慰めてくださり、悲しみから立ち直る力を与えてくださいます。
「柔和な者」(5)は柔弱な者ではありません。神様により 頼む故に自己中心な思いから解放された者、神様との交わりにより、霊的に強められた者です。
柔和な者は神様からより多くの者を託され、それを生かす力も与えられるので「地を受け継ぐ」ことが出来ます。
「義に飢え渇く者」(6)とは、神様との正しい関係、神様のみこころに従うことをひたすら求める者です。
そのような者を神様はイエス・キリストを通してご自身との正しい関係に入れ、心満たしてくださいます。
神様ご自身があわれみ深いお方であるから、主イエスは 弟子たちも互いにあわれみ、愛し合うことを願っておられます。そのように神様を愛し、隣人を愛する者を、神様は さらにあわれみ、愛し、祝福してくださいます。(7)
人間の心は罪により汚れたものですが、主イエスは私たちを罪から救うために十字架で死なれ、復活して下さいました。
罪を示された時、十字架の主を仰ぎ、罪赦され、心新たにされる中で、私たちは聖霊によって「心のきよい者」へと変えられていきます。(8)
私たちは日々の生活の中で神様の臨在(共におられること)を経験し、やがて顔と顔を合わせて「神を見る」(8)時が来るのです。(コリント人への手紙第一13章12節p346)
結 論)主イエスの弟子はただ平和を守るだけでなく、積極的に敗れた関係を修復して平和をつくろうとする者です。(9)
世は争いに満ちていますが、和解をもたらそうとする弟子たちの姿に人々は神の子のしるしを見るのです。
柔和さ、義、あわれみ深さ、心のきよさを完全に持っておられ、真の平和をもたらしてくださるのは神の御子イエス様だけです。
主イエスを信じ、従う者に、主はこれらのものを分け与えてくださいます。
そして、神様は私たちを主に似た者へと造り変えてくださるのです。さらに主を求めてまいりましょう。