コリント人への手紙 第一 15章50~58節

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。 Ⅰコリント15章57-58節(p.352)

序 論)「十字架のことば」(1章11節p327)で始まったこの手紙の最後に近いこの章でパウロは主イエスの復活と私たちの復活について語ります。
 今回の箇所で示されることは…

本 論)
1.死に対する勝利
 私たちの今のこの体、この世の人生は、朽ちるべきもの、 死ぬべきものです(50)。
 しかし、主イエスを信じ、従う者は永遠の命に生かされ、終末(主の再臨の日、世の終わりの時)に栄光の体に変えられます(51)。
 すなわち、地上の歩みを終えて御国に移された者は復活の体(栄光の体)が与えられ、地上にいる聖徒は、生きたまま栄光の体に変えられます(52)。
 私たちはこの地上における限られた人生が、私たちの歩みのすべてではないこと、神様の恵みによって、生かされる新しい、朽ちることのない命と体が与えられることを、聖書の言葉によって示されます(53)。
 神様はご計画の中で、私たちが神の国に生きる朽ちない体を「着る」ように定めておられます。復活の希望に生きる者は、死の向こうに、新しい、朽ちることのない神の国を受け継ぐ恵みが与えられていることを信じ、望みを持って地上の人生を歩むことができるのです。

2. 復活の恵みを賛美する
 死に対する神様の主イエスによる勝利をパウロは旧約聖書のイザヤ書25章8節(p.1204)の言葉の実現として語ります(54)。
 死に対する勝利が、世の終わりの私たちの復活のときに実現するのです。
 「死のとげは罪である」(56)と語られているように、死 は一人の人(アダム)の罪をきっかけとして、すべての人に及び、私たちに苦しみを与えるとげとなりました。今も死がとげであるのは、私たちの罪のためです。(ローマ人への手紙5章12節 p.304 参照)
 イエス・キリストは、その私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれました。主の十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。そして、神様は主イエスを復活させられました。主の十字架を信じることによって罪の赦しを与えられた私たちは、主の復活によって永遠のいのちの確証を与えられているのです。
 イエス・キリストの十字架によって、死のとげは既に抜き取られています。主イエスを信じる者は地上の生涯を終え死を迎える時も共にいてくださる主に委ねることができるのです。
 そして、終わりの日(主の再臨の日)、私たちの復活のときに死は完全に取り除かれます。私たちの復活は、イエス・キリストによって既に実現している死のとげの無力化、「死は勝利に呑み込まれた」(55)と宣言される神様の救いのみわざの完成のときです。
 パウロは、この終わりの日の勝利を先取りして、感謝し、 主を賛美しています。

結 論)パウロは、最後に「…堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。…」(58)と励まします。
 主の復活の事実と私たちの復活の希望があるから、私たちの労苦が無駄になることはないのです。(20-21)
 「主にあって…」、すなわち主イエスに結ばれ、主の栄光のためになすわざは、決して無駄になることはありません(58)。
 キリストを信じる者たちの集まり、キリストのからだである教会の大きな目的は、礼拝、交わり、キリストに似る者へと成長すること、周りの人たちへの奉仕、宣教だと言われます。私たち一人ひとりが、祈りつつ、教会の働きに関わり、主のわざに励んでまいりましょう。
 神様を信じ、礼拝し、それぞれが神様の恵みに応え、自分の置かれた場で、堅く立って主と教会に仕え、神様が喜ばれる働きを全力で成させていただきましょう。