マタイの福音書3章13~17節

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」  マタイの福音書3章16-17節 (p4)

序 論)主イエスが公生涯の歩みを始められる前、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)は、やがて来るべき救い主の先駆者としてヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていました。(3章4-5節)
 主はガリラヤからヨルダン川に近くにいたヨハネのもとに来られます。(13a)
 主のみことばとその時起こった出来事を通して示されることは…

本 論)
1.ヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けられた
 バプテスマのヨハネが「現われ」(1)と主イエスが「来られた」(13)は原語では同じ言葉が使われています。
 主イエスの道備えをするヨハネが現われ、ついに主が御姿を現わされたことがここで告げられています。
 主はヨハネのもとに来られました。主は洗礼を受けることを願われますが、ヨハネはためらいます。(13b-14)
 ヨハネは主イエスの前に立って自分が罪ある者であることを示され、自分こそバプテスマを受ける必要があると思ったのです。
 しかし、主イエスは「今はそうさせてほしい。…」(15) と言われます。
 主はヨハネから洗礼を受けることが「今」は「正しいこと」(神の御心にかなうこと)と仰ったのです。
 そして、主はヨハネからバプテスマを受けられました。
 これは主にとって、新しい出発のとき、人の目からは隠れた生活から、メシア(救い主)としての公生涯への転換点でした。
 またヨハネから洗礼を受けられることを通してヨハネの働きが神から出たものであることが明らかにされます。
 罪なきお方である主イエスが罪人の立場に立たれ、私たちの代表として洗礼を受けてくださったのです。これはやがて主が十字架の上ですべての人の罪を負われることの象徴でもありました。

2.天からの御声
 主イエスはヨルダン川で洗礼を受けられ、すぐに水から 上がられました。(16a)
 すると「天が開け」ました。主イエスは神の御霊(聖霊) が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になりました。(16b)
 ヨハネもこの出来事を目撃したことを後に証ししています。(ヨハネの福音書1章3-34節p176)
 そして、天からの御声(父なる神様の御声)がありました。(17)
 これは主イエスが神の御子であられることを人々に明らかにする宣言でした。 
 この御声は、苦難と共に人々の罪を担われる「主のしもべ」の歌の始まりのみことばと重なります。(イザヤ書42章1節p1235)
 主イエスは神の御子であられるのに苦難のしもべとしての生涯を歩み始められたのです。
 神様の御前で罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けるという罪人である私たちがなすべき最も大切なことを主イエスは真っ先に行ってくださいました。
 そして、そのご生涯の最期に、私たちの罪をすべて背負って十字架の上で死なれたのです。そのことによって私たちの罪は赦されました。

結 論) 私たちにとって「天が開ける」とはどういうことでしょうか。
 主イエスの十字架と復活によって私たちの罪が赦され、父なる神様と私たちが和解することができました。(コリント人への手紙第二 5章17-19節p361)
 そして、主イエスを信じ、聖霊を内に与えられている私たちは神様に「父なる神様、…」と呼びかけて祈ることができるようになりました。そのことが私たちにとって「天が開かれる」ことだと受け止めることができます。
 主イエスを神の御子、救い主と信じ、信仰告白した私たちが受ける洗礼は、父なる神様、御子イエス様、聖霊の御名によるバプテスマです。
 主によって救われ、主に結ばれた私たちに対しても父なる神様は「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 と呼びかけてくださっているのです。
 主イエスによって神の子とされた私たちは三位一体の神様のご愛の中で歩んでいきます。