コリント人への手紙第二 5章17節

講壇交換礼拝
説 教 題: 「だれでも、新しくなれる」
説教者: 高江洲伸子牧師(横浜栄光教会牧師)

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」        コリント人への手紙第二 5章17節 (p361)

 「毛虫這う、蝶となる日を夢見つつ」。この句はハンセン氏病という特殊な皮膚病に犯された玉木愛さんが、日々朽ちてゆく自分の中にある新しい命は、やがて主の御元に行く時には輝いた姿に変えられることを夢見つつ作られました。イエス・キリストは、ヨハネによる福音書3章で「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)と言われましたが、新しい自分になれる希望がここにあります。 

 バイブルキャンプに来た学生が、「これで僕は三度目生まれ変わりました」と言っているのを聞くことがよくありました。キャンプに来る度に心が新しくされるので生まれかわったと表現しているのですが、イエス様が言われた「新しく生まれる」という意味とは少し違っています。なぜなら、一度新しい命に生まれ変わった人は二度、三度と生まれかわる必要はないからです。例えばトンボはヤゴの時には泥水や水中でしか生きられない状態でしたが、一旦トンボに生まれ変わると、もはや泥水の中で生きることはできなくなります。神によって生まれかわった人は、清い神の世界で生きる者とされ、地上の生涯を終えるとそのまま天の御国に帰ってゆきます。

 古い私から新しい私へ

 アメリカのエール大学と言えば日本での知られる名門校ですが、かつて学生の75パーセントがコンプレックスに悩んでいるという調査結果があったそうです。私が読んだ本は1978年出版された書籍でしたから、現在ではどれほどのパーセントになっているか想像がつきません。ある人は、コンプレックスを定義して、「恥じなくてもよいことを恥ずかしがり、恥ずべきものを恥じない、ゆがんだ的はずれな心」と言いました。エール大学の学生だけでなく、人は多かれ少なかれ、どこかにコンプレックスをもっていて、むしろ、コンプレックスの無い人の方が珍しいと言えます。ただ、コンプレックスのやっかいなところは、歪んだ形で現れるところです。怒り、高ぶり、また、羨望や妬みと言った形で現れたり、時には、皮肉や陰口、悪口となってでてきます。近年複雑化していて、通りすがりの全く無関係の人に向けられることもあるので注意が必要です。

 イエス・キリストは「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われましたが、コンプレックスが強いと、愛さないといけない時に憎み、赦さなないといけない時に怒り、感謝しないといけない時に不平がでてきたりします。そのような自分に、自分も周りの人も振り回されてしまうことが度々あります。コリント人への手紙第一13章で使徒パウロは愛について、「愛は寛容であり、愛は親切です、また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」(4-7)と言っていますが、コンプレックスに引き回されない世界の穏やかさに驚きます。

 ラジオ牧師で有名な羽鳥明先生は、著書「あらしの中の人生」で、「夫の愛が確信できない妻と夫の愛で満たされている妻」について次のように言っています。「夫の愛が確信できない妻は、たとえ夫にはいそいそと仕えて、何一つ不平をもらさなくても、近所の人のことばを神経質に気にしたり、子どもや周りの人につらくあたったり、ふさぎこんだりします。けれど、夫から愛され愛に満たされている妻は、周りの人から悪口を言われたり、夫の地位が高くならなくても、決してイライラしたりトゲトゲしません。」と。このことは、人は愛がどんなに必要であるかを物語っています。

 旧約聖書エレミヤ記に、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方により、行いの実にしたがって報いる。」(17:10)と書かれています。放蕩息子は、放蕩の限りを尽くした結果、無一物となり、悲惨な自分の姿に気が付き、初めて「本心にたちかえる」ことができたのでした。そこで初めて父のもとに帰る決心を致しました。私たちはこの息子の様でなくても、日々生活の中で神様から心を探られ、試されながら生きています。ゆがんでしまう心の状態を知っていてもどうすることもできないでいるかもしれません。けれど考えてみて下さい。時計が壊れたときには時計屋さんで直してもらいます。心が壊れた時の心の修理は心を造ってくださった方のもと行けば良いのではありませんか。

 聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二5:17)と言っていますが、人は、人を造られた方のもとに行くことによってのみ、コンプレックスに振り回されてしまっている古い自分から新しい自分に新創造されます。

 愛が必要とされるところで、憎しみや怒りでしか打ち返せなかった者が、憎まれ裏切られる時でさえ、愛と赦しで応える者と変えられるのです。