「…これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」 ヨハネの福音書16章33節 (p219)
序 論)受難週の木曜日の夜、夕食(最後の晩餐)の席で主イエスは聖霊によって弟子たちが結ぶことできる聖霊の実である喜びと愛について語られました。(16-25)
さらに御霊の実である平安や弟子たちにこれから起こることについて語られます。今回の箇所で示されることは…
本 論)
1.聖霊による祈り
「その日」(26)は、主イエスの十字架と復活、昇天の後 弟子たちに聖霊が降る日、ペンテコステの日のことです。
その日までは主イエスが弟子たちに代わって父なる神様に祈り願われ彼らのためにとりなされました。
ペンテコステの日以降は、弟子たちは聖霊をうちにいただき、主イエスの御名によって父なる神様に祈る者とされるのです。(26)(ガラテヤ人への手紙4章6節p379)
そのようにされたのは父なる神様が彼らを愛しておられるからです。(27a)
そして、彼らは主イエスを愛し、主が父なる神様のもとから来られた方、神の御子であることを信じたからです。(27b)
御子イエス様は父なる神様のみもとから世に来られた方です。(28)
主イエスはこのとき、十字架の死によって世を去ろうとしておられました。
その後の復活と昇天によって主は父なる神様のみもとに 帰られます。
主イエスのみことばに応答して弟子たちは主が言われたことが理解できたことを告げます。(29-30)
彼らは主イエスによって教えられ、主がすべてをご存じであり、神様のみもとから来られた方であることを信じました。
2.世に勝たれた主とともに
主イエスは弟子たちに答えられます。(31-32)
彼らはこのときは主を信じていますと言いましたが、この後ただちに激しい試練にさらされるときが来ます。
宗教指導者たちがゲツセマネの園におられた主を捕えに来たとき、一緒にいた彼らは主を見捨てて逃げ去ってしまいます。彼らは牧者(羊飼い)を失った羊のように散らされるので主イエスは一人残されます。(マルコの福音書14章27節p99)
しかし、どのようなときも父なる神様がいつも御子イエス様とともにおられました。
主イエスは迫りつつある受難と十字架での死を前にして、 それが父なる神様の御計画の成就であることを確信され、 「わたしはすでに世に勝ちました」(33)と勝利を宣言されました。
ここでの「世」とは神様から人を引き離す様々な悪や罪の誘惑や死の力のことです。
このみことばの通り、主イエスは十字架の死と復活に よって罪と死と悪魔に打ち勝たれたのです。
これからも弟子たちは、この世での宣教の歩みの中で多くの苦難に出会います。しかし、彼らは主イエスを信じ、主にとどまっているので、主からの平安と勇気をいただくことができるのです。(33) (「平安」と「平和」は原語(ギリシア語)では同じことばが用いられている)
結 論) 主イエスを神の御子、救い主と信じる者は神の子とされています。
私たちにも様々な苦難、心配や不安なことや悩みがあります。
しかし、世に勝たれた主イエスを信じる者は「世に勝つ者」とされています。(ヨハネの手紙 第一 5章4-5節p484)
世に勝利された主イエスが私たちとともにいてくださり 様々な罪の誘惑や試練を乗り越えることができるのです。
聖霊によって主イエスとの交わりの中に生かされ、主を 信頼して歩みましょう。
(参考)
ビリー・グラハム(1918-2018) 米国の福音伝道師/牧師