説 教 題: 「悲しみは喜びに」
あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。 ヨハネの福音書16章22-23節 (p219)
序 論)受難週の木曜日の夜、夕食(最後の晩餐)の席で主イエスは弟子たちに聖霊のお働きについて語られました。
続いて主イエスは聖霊が結ぶ実について語られます。
今回の箇所を通して示されることは…
本 論)
1.主イエスは父なる神様のみもとに行かれる
主イエスは弟子たちに「しばらくすると…、またしばらくすると…」(16)と仰られましたが、彼らにはその意味がわかりませんでした。(17-18)
主は彼らに答えられます。(19-20)
「わたしを見なくなる」は主イエスが十字架で死なれた後、復活し、昇天され、父なる神様のみもとに行かれることです。
「またしばらくすると、わたしを見る」はペンテコステの日に弟子たちに聖霊がくだり、聖霊によって彼らのうちに主が生きてくださることです。
この世の人たち(主イエスを受け入れなかった人たち)は主イエスを亡き者にしたと思い込んで喜びます(偽りの喜び)が、
主イエスを失ったと思った弟子たちは悲しみます。(20bc)
しかし、弟子たちの悲しみは主イエスの復活と聖霊によって喜びに変えられます。(20d)
喜びは聖霊の実の一つです。(ガラテヤ人への手紙5章22-23節p382)
主イエスが聖霊によって私たちにその実を結ばせてくださるのです。(ヨハネの福音書15章5節p216)
続いて主は弟子たちに彼らが経験する一時的な苦しみや悲しみとその後に聖霊によって与えられる喜びを女性の出産時の苦しみと喜びにたとえて語られました。(21)
2.聖霊による喜びと主の御名による祈り
弟子たちは主イエスが自分たちの前からいなくなってしまわれると思い悲しんでいました。(22a)
主は彼らに「しかし、わたしは再びあなたがたに会います」(22b)と約束され、励まされました。
主が約束されたように、後に聖霊が降り、彼らの心は喜びに満たされました。(22c)
その喜びはますます深くなり、決して奪い去られることはありません。(22d) 聖霊によっていつも主イエスが共にいてくださるからです。
主イエスはここで言われる「その日」は、ペンテコステの日以降という意味です。(23a)
その日以降、弟子たちは「真理の御霊」(聖霊)の導きを受けるので、父なる神様のみもとに行かれる主イエスに尋ねる必要がなくなるのです。(16章13節)
そして、彼らは主イエスの御名によって、直接、父なる神様に祈るようになります。(24-25)
今まで主イエスは弟子たちに父なる神様が主ご自身を通して成そうとしておられることを多くのたとえで語って来られました。(25a)
これからは主イエスは真理の御霊によって彼らに父なる神様がどのようなお方かをはっきり伝えられます。(25b)
結 論) ペンテコステの日以降、主イエスを信じ、主にとどまる私たちが経験する喜びは聖霊による新しいいのちの喜びです。それによって父なる神様と私たちとの交わり、御子イエス様と私たちとの交わりがさらに深まっていきます。
聖霊による変わらない喜びの中にあっても、私たちは日々の歩みにおいて時に様々な悲しみ、苦しみ、痛みを経験します。
しかし、主イエスは私たちを慰め、励ましてくださり、そのことを通しても、神様は私たちを霊的に成長させてくださり、後には「良いこと」(益)に変えてくださいます。(ローマ人への手紙8章28節p310)
悲しみや苦しみが完全に取り去られる日、主イエスの再臨のときを待ち望みつつ、聖霊によって父なる神様に祈り、主と共に歩み続けましょう。(ヨハネの黙示録2章1-4節p516)