わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。…
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
ヨハネの福音書15章1、5節 (p215)
序 論)旧約聖書では、神様とイスラエルの民との関係が、農夫とぶどうの木(あるいはぶどう畑)の関係で表わされています。
農夫である神様は愛をこめて畑を耕し、ぶどうの苗木を植えられます。しかし、実ったのは酸っぱい野ぶどうでした。そのため神様はぶどう畑を見捨てると警告されました。それは愛ゆえの警告でした。(イザヤ書5章1-7節p1173等)
この章で主イエスはご自分をぶどうの木にたとえて語られます。今回の箇所を通して示されることは…
本 論)
1.主イエスにとどまる
主イエスは、ご自分をぶどうの木に、弟子たちをぶどうの枝に、そして父なる神様を農夫にたとえておられます。(5a) 「わたしはまことのぶどうの木」は他の誰でもない、このわたし(主イエス)こそがあなたがた(弟子たち)がとどまるべき本当のぶどうの木です、という思いが込められたみことばです。
農夫がぶどうの木を剪定(せんてい)するように、父なる神様は実を結ぶない枝を取り除き、もっと多くの実を結ぶように刈り込みをなさいます。(2)
主イエスの語られたみことばによって弟子たちはすでにきよくされています。(3)
4節~5節で、主イエスは「とどまる」という言葉を何度も語られます。(口語訳では「つながる」)
ここでの「とどまる」とは、主イエスのうちに住むこと、住み続けるという意味です。
私たちが主のうちに住むとき、父なる神様と御子イエス様が私たちのうちに住んでくださるのです。(ヨハネの福音書14章20、23節p214)
主イエスにとどまらなければ、私たちは神様に喜ばれる実を結ぶことはできません。(4c、5c)
主を受け入れず、亡き者にしようと計画していたパリサイ人たちはやがてさばかれる時が来る、と警告されました。(6)
2.主の愛にとどまる
主イエスが弟子たちのうちにとどまられ、主のみことばが彼らのうちにとどまるなら彼らは何でも(神様の御心にかなうこと)を神様に願い求めることができます。(7)
弟子たちが多くの実を結び、主の弟子であることが証しされ、父なる神が栄光をお受けになります。(8)
さらに主イエスは「…わたしの愛にとどまりなさい」と言われます。(9)
主イエスは父なる神様からご愛を受けられ、弟子たちを愛されました。
御子イエス様が父なる神様の戒めを守り、神様のご愛にとどまっておられるように、弟子たちも主の戒めを守り、主のご愛のうちにとどまります。(10)
主の戒めは「互いに愛し合いなさい」との「新しい戒め」です。(ヨハネの福音書13章34-35節p213)
彼らが主イエスの愛の中にとどまり続けるとき、多くの実を結び、主の弟子であることが証しされます。
父なる神様と御子イエス様との間に永遠の交わりがあるように、弟子たちは主イエスの愛の中にとどまり続け、主との生ける交わりを持ちます。それによって彼らは真の喜びと心の満たしが与えられるのです。(11)
結 論) 神様の愛は、主イエスの十字架において完全に現わされました。(ヨハネの手紙 第一3章16節p482)
私たちも主イエスの十字架によって罪の赦しの恵みに与った者です。
主イエスを信じ、受け入れ、主のご愛にとどまり続けるなら、私たちは三位一体の神(父なる神様、御子イエス様,聖霊なる神様)の愛の交わりの中に入れられ、永遠のいのちに生かされて歩むのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(5)
ぶどうの枝が木からの水分や栄養分を受けて実を結ぶように私たちも聖霊による神の愛の注ぎとみことばをいただいて成長し、実を結びます。
私たちが結ぶ実は御霊の実です。(ガラテヤ人への手紙5章22-23節p382)
聖書を読み、みことばを守り、祈り、共に礼拝をささげ信仰の歩みを続けてまいりましょう。