しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。 ヨハネ14章26-27節 (p215)
序 論)14章15節からの後半で主イエスは聖霊について語られました。(14章15-21節)
聖霊は「助け主」であり、父なる神様と御子イエス様と共に働かれます。
さらに主は聖霊について弟子たちに語られます。今回の箇所を通して示されることは…
本 論)
1.聖霊はすべてのことを思い起させてくださる
「イスカリオテでないほうのユダ」(「ヤコブの子ユダ」) (ルカの福音書6章16節p121、使徒1章13節p233)が主イエスに尋ねます。(22)
主は答えられます。(23)
不信仰な世は主を受け入れず、みことばを聞こうともしません。
主イエスは弟子たちが、主を愛し、みことばを守って歩むことを願われました。
主を愛し、みことばを守る者の内に主は住まわれ、共に生きてくださいます。(17c)
主イエスが語られたことばは主ご自身のものでなく、御子イエス様を遣わされた父なる神様のことばです。(24)
主は地上におられ間に弟子たちにみことばを語られました。(25)
やがて父なる神様が遣わされる「助け主」(「真理の御霊」(14章17節))が、それらのみことばを思い起させ、その深い意味を明らかにしてくださいます。(26)
「わたしの名によって」はここでは「わたしに代わって」という意味です。
2.主が弟子たちに与えられる平安
さらに主イエスは、弟子たちのもとから去られる前に「平安」を与える約束をなさいました。(27)(この「平安」の原語(ギリシア語)は「平和」とも訳せる言葉。 ヘブライ語の挨拶の言葉、「シャローム」にも「平和」「平安」という意味がある。)
主はここで「わたしの平安」と言われます。主が与えてくださる平安は、この世が与える平安とは違います。(27)
それは聖霊による平安です。
主イエスはご自身が父なる神様のみもとに行かれ、再び来られることを繰り返し語られました。(3、18、28a)
そしてご自身を遣わされた父なる神様に栄光を帰されます。(28c)
主が弟子たちのもとから去り父のみもとに行かれるのは、彼らのために「場所を用意しに行く」ためであり、「わたしのもとに迎える」ためでした。(14章2-3節)それは彼らにとっても大きな喜びとなります。(28b)
「それが起こる前に」の「それ」とは、主イエスが十字架で死なれ、復活、昇天され、神の右の御座に着かれることです。(29)
主イエスが話しておられる間にも、イスカリオテのユダやエルサレムの宗教指導者たちは主を捕えようと画策していました。
その背後で「この世を支配する者」(サタン)が働きかけていました。(29ab)
主イエスの十字架の死は間近に迫っていましたが、サタン(悪魔)が追い出されるときも定められていました。 (ヨハネの福音書12章31節p209)
主イエスは父なる神様を愛し、その御心に従ってご自分からいのちを捨てられます。(31)
故に「彼(サタン)はわたし(主イエス)に対して何もすることができない」(30)のです。
結 論)主イエスは弟子たちに語られた通り、この後、十字架の死と復活によって罪と死と悪魔に打ち勝たれました。
それによって私たちは義とされ、「神との平和」を与えられました。(ローマ人への手紙5章1節p304)
私たちは主イエスの御名によって父なる神様に祈ることができる者とされています。
昇天され、父なる神様の右の御座に着かれた主イエスは、今、主を信じる私たちに約束された聖霊を与えてくださっています。
聖霊によって主イエスが私たちと共にいてくださり、必要なみことばを思い起させてくださいます。そして「御霊の実」を結んでくださるのです。(ガラテヤ人への手紙5章22-23節p382)
主が与えてくださる聖霊による平安をいただき、主の再臨を待ち望みつつ歩んでまいりましょう。