「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら
救われます。また出たり入ったりして牧草を見つけます。
…わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのために
いのちを捨てます。」
ヨハネ10章9、11節 (p202)
序 論)旧約聖書では、神様と人間との関係を牧者(羊飼い)
と羊にたとえて語られている箇所があります。
(イザヤ書40章11節等p1231)
羊は弱くて迷いやすく、また、迷っていることの自覚さ
えないこともあります。迷い出てしまった羊は、危険な状
況に陥ります。オオカミなど、羊を狙う猛獣がいます。断
崖や穴、深い谷など、あらゆる危険が待ち受けています。
羊には自分たちを守り、導く牧者が必要です。
この章でイエス様はご自分を羊飼いにたとえて語られま
した。この箇所で示されることは…
本 論)
1.主イエスは羊たちの門
夜間、羊は石の壁で作られた囲いに入れられていました。
羊飼いは盗人や強盗から羊の群れを守る必要がありました。
ここでの盗人や強盗は当時の宗教指導者たちを指して語
られています。(1) 神様から、その所有である羊(イスラ
エル民族)を託されていたはずの指導者たちは、彼らを責任
をもって養う(教え、導く)べきでした。しかし、かえって
彼らを苦しめたり、誤った道に導いてしまったのです。
羊飼いが、自分の羊の名前を読んで呼び出すのは、神様
と人との一対一の人格的な結び付きを表しています。(3)
また囲いには門があり、羊が盗まれないように門番がい
ました。羊たちは朝になると、草を食べるために門を通っ
て囲いから出ていきます。そして夕方になると、門を通っ
て安全な囲いの中に入るのです。
イエス様は「…わたしは羊たちの門です。…」(7)と言わ
れ「わたしは門です。…」(9)と語られました。主イエスご
自身が私たちの門となり、私たちを守ると宣言しておられ
るのです。
私たちは羊のように臆病で迷いやすく、一人では生きて
いけない弱い者です。でも、私たちは主イエスのもとで養
われ、安らうことができます。そして主はどんなときも私
たちと共にいて守ってくださるのです。
2.羊のためにいのちを捨てる羊飼い
ここでの「ほかの人」(5)は、宗教指導者たちを指します。
彼らは神様から託された羊(イスラエルの民)を間違った方
向に導こうとしていました。彼らは、主イエスのたとえが
自分たちのことを言われていると気づきませんでした。
旧約時代の宗教指導者や為政者たちも牧者(羊飼い)にた
とえられている箇所がいくつかあります。彼らは偶像礼拝
等によりイスラエルの民を追い散らしたり、ついには亡国
へと至らしめました。
(エレミヤ書23章1-4節p1332)
羊飼いにとって羊はとても大切なものです。でも、自分
の羊を持たない雇い人は、羊が自分のものでないので、オ
オカミが来たりすると、羊を置いて逃げていくのです(12)。
この雇人は自分のものではないので羊に対する愛情がない
のです(13)。
しかし、主イエスは「わたしは良い牧者です。…」と言
われます。(11、14)
ここでの原文は「このわたしこそが良い牧者です」とい
う意味の言葉が使われています。
詩篇23篇でダビデは次の様に詠います。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私
を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。」
(詩篇23篇1~2節p954
良い羊飼いである主イエスは、私たちの必要を知り、満
たして下さる方です。何か困っていること、悩んでいるこ
と、不安に思っていることがあるなら、主にそれを話しま
しょう。主イエスは私たちの祈りに耳を傾けてくださり、
私たちの心に平安を与え、良き導きを与えて下さいます。
イエス様が私たちに一番願っておられることは、私たち
が豊かないのちを持つことです(10)。それは、いろんな悩
みや困難がある生活の中でも、主にある喜びと平安をもっ
て生きるため私たちを支えるいのちです。
そして、そのいのちはたとえ地上の生涯を終えたとして
も、生かされる永遠のいのちです。
結 論) 良い羊飼いであるイエス様は、私たちを罪から救
い、永遠のいのちに生かすためにこの地上に来て下さいま
した。
そして私たちの罪の身代わりとなって十字架でいのちを
捨て下さいました。(11)
十字架で死なれた主イエスは三日目に復活されました。
主イエスはご自身を信じる私たちの内に住み、私たちと
共に生きて下さいます。
「牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きま
す。」(4)
主イエスを信じ、主と共に歩み続けましょう。