しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、
翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いて
も疲れない。
イザヤ書40章31節(p.1232)
序 論)イザヤ書6章(p.1176)に記されているように
神様はイザヤを預言者として召命されました。イザヤは、
イスラエルの民にやがて来るさばきを語り続けました。
彼は民の罪を指摘し、悔い改めを迫りました。それは、
当時の民が理解しえず、受け入れることができないもの
でした。
39章で、イザヤはヒゼキヤ王にバビロン捕囚(BC605
年~)を予告します。(39章5~8節p.1229)
しかし、40章は、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。」
の神の言葉で始まります。ここから「慰めのメッセージ」
と呼ばれる、捕囚の後に起こる回復と希望が語られていき
ます。
本 論)
主は永遠の神であり、創造主
40章6~11節では、人間の弱さと神の言葉が対照され
ています。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を
引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(11)
神様が慈愛に満ちた牧者として民を養われることをイザヤ
は告げます。
12~26節では、虚しい神々の像と対比して、真の神が
どのようなお方であるかが述べられています。
続いて「ヤコブよ、…」と神様はイスラエルの民に呼び
かけられる言葉が記されています。(27)
「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされて
いる」(27)は、私は神から遠く見放されている、訴えても
神は聞いて下さらない、という民の神に対する不平の言葉
です。人間の心のかたくなさがこのようなつぶやきとなっ
て表れています。
それに対し、神様は「なぜ言うのか…なぜ言い張るのか」
と民に問うておられます。実際は、人の道が神の目から隠
されているのではなく、神の道が人の目から隠されていま
す。それは、民の心が神様から離れているゆえでした。
イザヤは、イスラエルの神が永遠の神であり、天地すべ
ての創造主であることを告げます。(28)
神様の私たちに対するご愛は変わらず、語りかけ続けて
おられます。私たちは聖書を通して、神様の語りかけを聞
くことができ、祈りを通して、神様と交わることができる
のです。
2.主を待ち望む者
ここでの「力」と「勢い」(「強さ」協会共同訳、口語訳)(29)
は、一回限りのものではなく、絶えず神様から人に与え続
けられる力です。
ここでの「主を待ち望む」(31)は、神様に信頼し、礼拝
する、神様に自分の全存在を委ね切って生きる等の意味が
含まれています。
「力」は神様から与えられるので、それは常に新しくさ
れ、私たちにとって「新たな力」となるのです。(31)
「鷲(わし)」が翼に風を受けて羽ばたくように、私たち
も神様からの力をいただいて、歩み続けることができるの
です。(詩篇103篇5節p.1040)
当時、アッシリヤの圧迫を切実に感じていたユダヤの
人々にとって、イザヤの預言は大きな励ましとなりました。
また、後年、バビロン捕囚という大きな苦難を経験する
ようになる人々にとって力強いメッセージとなったのです。
イスラエルの民は、バビロンの地において、二代、三代
かけて主を待ち望みました。やがてペルシャ王クロスによ
るバビロン帝国の終焉、民のユダヤの地への帰還のときを
迎えます。(BC538年頃)
そして、旧約時代のイスラエルの民は、救い主(メシア)
の到来を待ち望みました。
結 論) イザヤが告げた救い主は約700年後にこの地上
に来られました。そして、救いのみわざを成し遂げてくだ
さいました。
主イエスを信じることによって救われる新約の恵みの時
代においては、ここでの「力」は、聖霊による力です。
また、主を待ち望むとは、聖霊によって私たちと共にい
てくださる主イエスとのさらに深い交わりを待ち望むこと
であり、やがて再臨される主イエスを待ち望むことです。
(Ⅰテサロニケ人への手紙1章9~10節p.408
ヨハネの黙示録22章20-21節p.519 等参照)
主イエスを信じ、待ち望む者は、新たな力が与えられ、
歩むことができるのです。