彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り
『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それ
で、行って洗うと、見えるようになりました。」…「あの方
が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っていま
す。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
ヨハネの福音書9章11、25節 (p.199)
序 論)生まれつき目の不自由だった人が、主イエスによっ
て目が見えるようになりました。(7) そして、主イエスを
近所の人たちに証ししたのです。(11)
その後、起こったことを通して示されることは…
本 論)
1.神のもとから来られた方
彼の証言を聞いた人々は、神様をあがめるどころか、
主に敵対するパリサイ人たちのところに彼を連れて行きま
した。(12-13)
彼は「…それで、今は見えるのです。」と彼らに証しし
ました。審問に当たったパリサイ人たちの間に意見の対立
が生じます。(15-16)
主イエスが「安息日を守らない」ので「神のもとから来
た者ではない」という人たちがいました。(16)
(当時、安息日に人をいやすことは緊急の場合以外は禁じ
られていた。)
逆に主が特別な方だと言う人もいました。(16)
目をいやされた人は、再びパリサイ人たちに問われまし
た。彼は「あの方は預言者です」と答えました。(17)
たとえパリサイ人たちが主イエスを受け入れないとして
も、主イエスは神のもとから来られたお方です。
父なる神様が、御子イエス様を地上に送られたのです。
それは、主イエスを通して神様がすべての人を罪から救う
みわざを成されるためでした。
ユダヤ人たちは、このいやされた男性が以前は本当に
目が不自由だったのか確かめようとしました。そのために
彼の両親を呼び出したのです。(18-19)
(ここでの「ユダヤ人たち」は主イエスに敵対する人たち
のこと)
2.「一つのこと」を証しする
この両親は、いやされた男性が「私たちの息子で、盲目
で生まれたこと」(20)は証言しました。
しかし、どのようにいやされたのか、だれがいやしたの
かについては証言しませんでした。(21)
それは、彼らがユダヤ人たちを恐れていたからでした。
当時、主を信じると告白すれば会堂から追放すると決めら
れてしまっていたのです。(22)
彼らは息子に直接、聞いてください、と言います。(23)
再び、目をいやされた男性本人からの聴取が始まりまし
た。(23)
ユダヤ人たちはどこまでも、主イエスが罪人であると主
張しました。(23)
しかし、彼は「あの方が罪人かどうか知りませんが、一
つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見
えるということです。」(25)と確信をもって証言しました。
これは、彼の身に起こった、打ち消しようのない事実だっ
たのです。
さらに彼とユダヤ人たちのやり取りは続き、堂々巡りと
なります。彼らはついに「彼を外に追い出した」のです。(34)
彼は会堂から追放され、そこで礼拝することができなく
なってしまいました。
しかし、このような厳しい取り扱いを受けた後、彼は
真の信仰に導かれていきました。
結 論)「世の光」として来てくださった主イエスは、十字
架と復活によって罪と死と悪魔に打ち勝たれ、私たちを
罪から救い出してくださいました。(8章12節p194)
私たちも、主イエスによって、闇から光へと移されまし
た。(使徒の働き26章17-18節p290)
そして霊の目が開かれ、「イエスをキリスト(救い主)と
告白する者」(22)とされました。
私たちにとっての「一つのこと」は、主イエスを信じて、
罪から救われ、新しくされたことです。
みことばと聖霊によって主イエスとの交わりをさらに深
め、主イエスのご愛を証ししてまいりましょう。