ヨハネの福音書9章1~11節

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両
親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
ヨハネの福音書9章3節(p199)

序 論) 前章でイエス様は「わたしは世の光です。わたし
に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光
を持ちます」(8:12)と言われました。その例証と言
える出来事をヨハネはここで伝えています。

1、いのち光を与えられる主
 イエス様は、エルサレムで生まれつき目が不自由で、物
乞いをしている人に出会いました。(1)この直前の8:
59を見ると、イエス様はユダヤ人たちに石打ちに遭いそ
うになって「身を隠して、宮から出て行かれ」ました。ご
自身の命の危険を感じるような場面を通った後も、イエス
様は、当時、何の価値もないと低く見られ蔑まれていた物
乞いの盲人に心をかけられました。
 イエス様が彼をじっと見ておられることに気付いた弟子
たちは、イエス様に質問しました 。(2)  彼らの言葉には、
当時のユダヤ社会の考え方が表れています。彼らは、誰か
が罪を犯した結果、この人の目が不自由なのだと考えてい
ました。
 しかし、イエス様は弟子たちの問いかけに、誰かの罪の
結果ではないとはっきりと答えられ「この人に神のわざが
現れるためです。」(3)と言われました。人は何故こうなっ
たのかと原因を求めますが、イエス様は神様の愛の眼差し
が彼に注がれていることを見ておられたのです。
 一見、不幸に思えることを通しても、結果的には、彼が
神の栄光を見ることができるようにしてくださいました。
そして、イエス様こそがまことの世の光であることを人々
に示そうとされたのです。
 「わたしを遣わされた方」(4)は、イエス様を地上に送ら
れた父なる神様のことです。「昼のうちに」(4)は、ご自身
が世にいる間に、という意味です。「夜が来ます」(4)は、
イエス様が弟子たちのもとから去って行かれ、十字架にか
かられることを暗示する言葉です。
 イエス様がこのとき「わたしたちは…」(4)と言われたよ
うに弟子たちにも、イエス様と共になすべきわざ(宣教の
使命等)がありました。
 そして、イエス様は「わたしが世にいる間は、わたしが
世の光です。」(5)と仰いました。イエス様ご自身が、この
闇の世を照す光として、この地上に来てくださったのです。
 イエス様は、今も、私たちの行くべき道を照らし、導い
てくださる光です。それと共に、私たちも主の弟子である
ことを自覚し、そのわざに励んでいくことを期待されてい
るのです。

2、神のみわざが現れた人
 イエス様は、唾(つば)で泥を作って盲人の目に塗られま
した。(6)続いて、「シロアムの池」に行って、洗うように
命じられます。「シロアム」はヘブライ語で、「遣わされ
た者」という意味です。これは、主が、父なる神様から遣
わされたお方であることを示す言葉でした。そして、この
男の人もイエス様によって「遣わされた者」として、主の
言われた通りに従い、池に向かいました。(7)
 イエス様の言葉通りに彼が目を洗うと、目が見えるよう
になりました。(7) 彼は生まれて初めて、その目で神様の
造られた世界を見ることができました。
 長年、同じ場所で物乞いをしていたこの人を周囲の人た
ちはよく知っていました。それゆえ、彼の身に起こったこ
とを不思議がり、また「…おまえの目はどのようにして開
いたのか。」となぜそうなったのかを知ろうとしました。
(8-10)
 彼は「イエスという方が…言われ…それで、行って洗う
と見えるようになりました。」(11)と簡潔に事実を
伝えま
した。彼はここでは「イエスという方」と言っていますが、
この後、イエス様への見方はだんだんと変えられていきます。
 彼は、イエス様のことを「預言者」(17)、次に、「神か
ら出」た人(33)、最後には 「主よ、信じます。」と信仰
を告白し、イエス様を礼拝しました。(38)
 彼の上に神のみわざが現わされ、彼は肉眼が開かれただ
けでなく、霊の目も開かれたのです。

結 論) 私たちを取り囲む現実は戦争や虚偽、混乱、様々
な深い闇を思わせるものです。しかし、ここに、神様のわ
ざが始まろうとしています。
 この目の不自由な人がイエス様の言葉を信じ、従い、行
なっていった時に、神様のわざがなされていきました。
 「夜が来」る(4)とイエス様は言われました。私たち
は何もできなくなる夜、私たちを囲む闇を恐れます。しか
し、私たちのイエス様は今も私たちと共に在ます「世の光」
です。
 この内なる光を持っているなら、闇は怖くはありません。
光によって闇は消え去ります。
 この光を持ち続け、「私たちを神の御名が崇められるた
めに『世の光』としてお用いください」と祈りつつ歩んで
参りましょう。