「…あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見る
ようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、
喜んだのです。…イエスは彼らに言われた。「まことに、ま
ことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前か
ら、『わたしはある』なのです。」
ヨハネの福音書8章56、58節(p199)
序 論) この章で「わたしは世の光です」(12)と言われた
主イエスはパリサイ人たち、ユダヤ人たちと対話を続けら
れ、ご自身のことを証しされました。
主は再びアブラハムについて語られることを通して、
さらにご自身のことを証しされます。
この箇所を通して示されることは…
1.主のことばを守る
ここでユダヤ人たちが主イエスに対して言っている「サ
マリア人」(48)は、偶像礼拝をしている者という意味の蔑
称として用いています。さらに主のうちに悪霊が働いてい
る、と言いました。
父なる神様を敬い、みこころに従っておられる主を卑し
めることは、神様を侮ることになります。(49)
主はご自分の栄光をお求めになりませんが、父なる神様
が主に栄光をお与えになります。そして、主を卑しめる者
をさばかれます。(50)
主はさらに語られます。(51) 主のことばを守るとは、
みことばを聞き、みことばが証ししている主を信じ、
従うことです。
そして、ここでの「死」は地上の生涯の終わりではなく
神様の交わりが断たれる「霊的な死」のことです。
(ヨハネの福音書5章24節p186)
主イエスを信じ、従う者は、永遠のいのちに生かされる
のです。
しかし、ユダヤ人たちは主の言われていることを悟るこ
とができませんでした。アブラハムも預言者たちも死んで
いるのに、そのような途方もない発言をする主を彼らは悪
霊につかれた者だと非難しました。(52-53)
2. 「わたしはある」と言われる方
主イエスは彼らに言われます。(54-55)
彼らは律法を守ることによって自分たちは神に対して忠
実であると思っていました。しかし、彼らは神様がどのよ
うなお方であるかを、本当には知ってはいなかったのです。
それに対して、主イエスは「この方(神様)を」知っておら
れました。
続いて主はユダヤ人たちの父祖アブラハムについて語ら
れます。(56)
「わたしの日」とは主イエスが地上に来られ、救いのみ
わざを成されるときのことです。
アブラハムは神様の語りかけを聞き、生まれ故郷を離れ、
神様の示される地へ旅立ちました。彼は神様の約束を信じ
て旅立ったのです。
(創世記12章1-4節p17)
アブラハムはやがて救い主(キリスト)が来られることを
待ち望みつつ神様を仰いで地上の生涯を歩みました。そし
て、キリストの日(主の来臨のとき)に、それを見て喜んだ
のです。
(へブル人への手紙11章13節p452)
主の言葉を聞いたユダヤ人たちは反論します。(57)
主は彼らに答えられました。(58)
「わたしはある」(58)(ギリシア語では「エゴー・エイミ」。
英語ではI am.(アイ・アム))は神様がモーセにご自身の名を
答えられたときに言われた言葉でもありました。
(出エジプト記3章14節p102)
主イエスの言葉を聞き、我慢できなくなったユダヤ人た
ちはその場で主に石を投げつけようとしました。しかし、
このときはまだ主が十字架にかかられる時は来ていなかっ
たのです。主は難を避け、彼らから「身を隠して、宮から
出ていかれ」ました。(59)
結 論)主イエスの58節のみことばは、主が神ご自身であ
ること、永遠に存在されるお方であることの宣言でした。
現代でも、主イエスを偉大な人間だと思う人たちは多い
のですが、神の御子であると信じる者は少数です。
しかし、福音記者ヨハネは「イエスが神の子キリストで
あることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、
イエスの名によっていのちを得るため」にこの書を書きま
した。 (ヨハネの福音書20章31節p229)
主イエスは神の御子であるからこそ、十字架にかかられ
復活され、私たちの救いを成し遂げられました。そして、
罪の赦しを宣言されたのです。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わ
ることがありません。」
(へブル人への手紙13章8節p456)
私たちと永遠に共にいてくださる神の御子イエス様に
従い、歩み続けましょう。