マルコの福音書10章46~52節

講壇交換礼拝 田上篤志師(宇都宮共同教会牧師)

「喜び踊りながら」

  • エリコの道端に座って、土ぼこりで顔も体もほこりまみれになって物乞をしていたバルティマイの「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください」という叫び声は、道行く多くの人々にはうるさいだけのものでしかありませんでした。ですから人々は彼を黙らせようとしました。しかしキリストは「あの人を呼んできなさい」とおっしゃいました。それを聞いて心ある人は喜びながらバルティマイのところに駆け寄って告げたのでした。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」

    バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、キリストのもとに来ました。この物乞いが身につけていた上着は、実際には大きな布のようなものであり、夜になれば寝巻きとなり、物乞いをするときには、道端に座るための敷物の役目も果たしました。そのような上着は、バルティマイにとっては唯一の財産でした。その上着を脱ぎ捨ててキリストのところに喜び踊りながら来たのです。

    マザー・テレサが『淋しさ』についてこんなことを言っています。「私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは、ひとりぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものであるかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう」(「マザー・テレサ 愛と祈りの言葉」渡辺和子訳PHP) マザー・テレサが言うこの世で一番大きな苦しみを毎日感じながらバルティマイも生きていました。そこに、「イエスさまが、あなたのことをお呼びだぞ」という福音が聞こえてきたときバルティマイは、まだ願いを聞いてもらう前から、キリストが自分を呼んでくれたという喜びに満たされたのです。

    その後に続く、二人の対話については、福音書がシンプルに記していることをそのまま聴きとれば十分でしょう。その上で注目したい一点はバルティマイが癒された後にとった行動を聖書がこう記していることです。「すぐに見えるようになり、道を進むイエスについて行った」 

    <参考>「なお道を進まれるイエスに従った」(協会共同訳)

    この出来事のしばらく前に「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」と真面目な求道者としての質問をキリストにした若者がいました。キリストはこの若者に対して、持ち物をすべて売り払って貧しい人に施して従ってくるようにと説きましたが、若者はキリストに従うことができずに顔を曇らせて去って行きました。このことでこの若者に対するキリストの慈しみが変わることはなかったでしょうけれども、キリストにとってはやはり残念なことではあったに違いありません。

    そうした出来事の後、ひとりの物乞いをしていた盲人が、呼びかけに対して踊りながら喜んでやって来て、そのまま従う者となった。このことはキリストにとって喜びとなり、また「道を進むイエス」にとって、すなわち十字架への道を進まれているキリストにとって慰めにもなったに違いありません。

    キリストに従うには……。大切な持ち物や自分の楽しみすべて捨てることで、従うことができるようになるというものではありません。もし、そうしなければならないとすれば、私たちにしても、あの富める若者と同じような結果になってしまうでしょう。そこで、よく考えて思い出したいのです。私たちも淋しい時があったのではありませんか。自分が惨めで心を暗くしている時があったのではありませんか。そんな私たちにも、いろいろな形で福音の声が届いたのではないでしょうか。「お呼びだよ」と。その時の喜びを想い起すこと、それがキリストに従うことへの一歩となります。ですからバルティマイが踊って表した喜びを、私たちは聖歌『キリストには代えられません』をうたいながらあらわそうではありませんか。