そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げた
とき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、ま
た、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられた
とおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは
知るようになります。…」
ヨハネの福音書8章28節(p196)
序 論) 「わたしは世の光です。…」と宣言された
主イエスは、パリサイ人たちと対話されました。(12-20)
再び主は彼らに語られます。主のみことばと彼らとのや
り取りを通して示されることは…
1.「わたしはある」という宣言
主イエスはやがてご自分が地上の生涯を終えられ、父な
る神様のみもとに帰られることを告げられます。(21)
しかし、ユダヤ人たちは主のみことばを理解することが
できませんでした。(22)
主イエスは「上から来た者」(天の父なる神のみもとから
来られたお方)(23)であり、人を罪から救う贖いのみわざ
を成し遂げようとしておられました。
主はご自身のことを「わたしはある」だと言われます。
(24) (ギリシヤ語では「エゴー・エイミ」
英語では I am. (アイ・アム))
この場合のamは「~である、~です」という
意味ではなく「~がある、~が存在する」の意。)
これは、旧約で神様がモーセに伝えられたご自身の名、
「わたしはある」(出エジプト記3章14節p102)という
言葉と重なります。
主イエスのこの言葉は、ご自身が神と等しい方であり
神の御子であることを告げるものでした。
(ヨハネの福音書5章18節p185)
ユダヤ人たちは、さらに主に問いかけます。(25)
主はご自身が神の御子、救い主であることを語り続けて
こられました。しかし、彼らはそれを悟ることができなか
ったのです。
2. 人の子は上げられる
御子イエス様を地上に遣わされた父なる神様は真実なお
方です。
主イエスはいつも父なる神様に従われ、神様から聞かれ
たことをそのまま人々に告げられたのです。(26)
主イエスは父なる神様について語られても彼らは理解す
ることができませんでした。(27)
「人の子」(28)は、主がご自身のことを指して言われる
言葉です。
人々がイエス様を「上げる」とは、十字架にかけることを
意味しています。
(ヨハネの福音書3章14節p180)
(民数記21章8-9節p278参照)
そして、主イエスが「上げられる」という言葉は、主が
十字架で死なれた後、復活、昇天され、父なる神様の御座
に着かれるという意味も込められています。
父なる神様が御子イエス様を通して成される救いのみわ
ざによって、イエス様が神の御子、救い主であることが人々
に明らかにされます。(28)
御子イエス様を遣わされた父なる神様は、どんなときも
主と共におられました。(29)
主イエスは、父なる神様の御心に従って歩まれました。 (ヨハネの福音書5章19節p186)
主イエスのみことばを聞いたユダヤ人たちの中の多くの
者が主を信じました。(30)
しかし、それが確かな信仰でなかったことが、31節以
降の主イエスと彼らの論争が進むにつれて明らかになって
いきます。
結 論)この後、主イエスは、ここで語られた通り、十字架
と復活と昇天によって、救いのみわざを成し遂げてくださ
り、私たちを罪から解放し、永遠のいのちの道を開いてく
ださいました。
十字架に上げられた人の子、イエス様を神の御子、救い
主と信じる者は、罪赦され、永遠のいのちに生かされます。
「わたしはある」と言われるお方、主イエスは永遠に
私たちと共におられます。
そして、今、主は聖書のみことばによって、私たちに語
り掛けてくださっています。
(ヨハネの福音書6章68節p191)
永遠のいのちのことばを持っておられる主イエスと共に
歩みつづけてまいりましょう。