イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わた
しに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光
を持ちます。」
ヨハネの福音書8章12節(p195)
序 論) 宮(神殿)で主イエスは、一人の女性に対して罪の
赦しを宣言されました。(10-11)
続いて主は、人々に語られます。(12)
主とパリサイ人たちとの対話を通して示されることは…
1.神の御子としてご自身を証しされる
このときはエルサレムでは仮庵の祭りが行われる時期で
した。その祭りの初日の夕刻に神殿の婦人の庭にある四つ
の金の燭台に火が灯されていました。
主イエスはご自身が「世の光」であると言われます。(12)
「わたしは…」の原文は、「他のだれでもない、このわた
しこそが…」という意味が込められた言葉が用いられてい
ます。
パリサイ人たちは、主の宣言に反発します。(13)
彼らはイエスは「自分で自分のことを証ししている」ので
そのような証言は無効であると主張しました。
主イエスは彼らに答えられます。(14)
彼らは主がどこから来られたお方であるか、わかっていま
せんでした。ここで主はご自分が父なる神様のもとから来
られ、やがて神様のみもとに帰られることを語られました。
イエス様ご自身も、「わたしはだれもさばきません」(15)
と言われるように、主は地上のご生涯の中でさばくこと
をなさらなかったのです。
もし、主イエスがさばきをされたとしても、父なる神様
が主と共におられるので、その「そのさばきは真実」なの
です。(16)
さらに主は「わたしと父とは一つです」と宣言されます。
(ヨハネの福音書10章30節p202)
それほどに主イエスは父なる神様と一致して歩んでおら
れました。
2. 父なる神と御子による証し
何かを立証する場合は一人ではなく、「二人の人による
証し」(17)が必要であると律法に記されていました。
(申命記19章15節p349)
ここでの二人の証人は御子イエス様と御子を地上に遣わ
された父なる神様です。(18)
主イエスのみことばを聞いていたユダヤ人たちは、主が
神様ご自身を指して「父」と言っておられるのだと悟り始
めました。
それでも、彼らは、目には見えない神様を証人として認
めたくありませんでした。
そこで彼らは、主イエスの言われる意味に気づいていな
いふりをして主に質問します。(19)その言葉にはもう一人
の証人である「父」を目の前に示してほしい、という気持
ちが込められていました。
それに対して主は答えられます。(19)
御子イエス様を知ることは、イエス様を遣わされた父な
る神様を知ることにつながります。
(ヨハネの福音書14章7、9節p213参照)
彼らは主イエスがどのようなお方かを悟ることができま
せんでした。それゆえ、彼らは不信仰のうちにとどまって
しまいました。
主が宮(神殿)におられたとき、「献金箱の近く」(20)で
話されました。献金箱は神殿の婦人の庭に置かれていまし
た。
パリサイ人たちは、まだ主イエスを捕えることができま
せんでした。
それは「イエスの時」(主イエスが十字架にかかられる時)
がまだ来ていなかったからでした。(20)
結 論)罪赦された女性は、主イエスによって闇から光へ移
されました。(ヨハネの福音書8章1-11節)
使徒パウロは復活の主にお出会いし、闇から光へ移され
ました。(使徒の働き26章18節p290)
私たちも主イエスの十字架と復活の恵みによって闇から
光へ救われた者たちです。
私たちも主イエスの光をうちにいただいて「世の光」と
されています。
(マタイの福音書5章13-15節p7)
主によってそれぞれが置かれた場所で、「世の光」とし
て、主イエスの恵みと父なる神様のご愛を証ししてまいり
ましょう。