ルカの福音書5章27~32節

そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、
健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を
招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」
       ル
カの福音書5章31-32節(p119)

序 論) 主イエスは、弟子のペテロたちと共にカペナウム
という町(マルコの福音書2章1節p67)におられました。
 主はそこで「レビという取税人」と出会われます。(27)
 主とレビの言動を通して示されることは…

1.レビを召される主
 レビとマタイの福音書記者のマタイ(9章9節p15)は

同一人物です。
 当時の取税人は、ローマ帝国から請け負って税金をユダ
ヤ人たちから徴収していました。そのためユダヤの社会で
は軽蔑されていた職業でした。
 ここの「収税所」は通行税や関税を徴収していました。
 レビは、自分のしていることに疑問を感じ、心の渇きを
覚えていたのかもしれません。
 主イエスは収税所に座っていたレビに御声をかけられま
す。(27)
 彼はすぐに立ち上がって主に従いました。(28)
 (原文意訳 「彼はさっと立ち上がり、すべてを後ろに
残してそれからずっと主イエスに従って行った。」)
 (「立ち上がる」の原語は「起きる、復活する」という
 意味も含まれた言葉)
 レビの新しい人生の歩みがこの時から始まったのです。
 後にレビ(マタイ)はマタイの福音書を記しました。

 2. 罪人を招いて悔い改めさせるために来られた主 
 レビは自分の家に主イエスや弟子たちを招いて盛大な食

事会を開きました。(29)
 主は、弟子たちといっしょに取税人たちと同じ食卓に
着かれます。食事を共にすることは親密な交わりを意味し
ていました。
 同じ席に「多くの取税人たちやほかの人たち(罪人たち)」
  (29,30)もいました。彼らも招かれていたのです。
 レビは、主イエスがどのようなお方か、また主に従う喜
びを出席者たちに証ししたことでしょう。
 ここでの「罪人」は、伝統的なユダヤ教の慣例(食物規定
など)を職業などの理由で守れない人たちのことです。パリ
サイ人たちは、軽蔑を込めて彼らをこのように呼んでいま
した。
 主の言動を監視していたパリサイ人たちは主イエスの弟
子たちに対して、つぶやき、不平を言います。(30)
 (パリサイとは、ヘブライ語で「パールーシュ」(分離さ
れた者)に由来し、汚れているものすべてから自らを分け隔
てるという意味を持っていた。道徳と宗教において純粋さ
を追求する彼らは、取税人や罪人たちと同じ食卓に着く
ことなど考えもしないことであった。)
 主はパリサイ人たちの問いに答えられます。(31-32)
 主は、ご自身を医者、正しい人を健康な人、罪人を病人
にたとえて話されました。
 主イエスがここで言われる「罪人」は、神様から心が離
れ、神を愛し、隣人を愛することができなくなっている
人のことです。
 そして「正しい人」とは、文字通りの「義人」ではなく
パリサイ人たちのように自分の罪に気づかず、取税人たち
を見下している人のことです。
 またここでの罪人はレビのように、神様の御前に自分の
罪を認め、悔い改めた者という意味も含んで用いられてい
ます。
 このとき主イエスは取税人や罪人たちだけでなく、パリ
サイ人たちも悔い改めに導かれることを願って彼らをも招
いておられたのです。

結 論)神様の御前に本当に「正しい人」はおらず、すべて
の人は罪人なのです。
(エレミヤ書17章9節 新改訳2017  p1321)
 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰が
それを知りえようか。」      (同上 新共同訳)
 ご自身を医者にたとえられた主イエスは、罪という病に
苦しむ私たちを罪から救うために、私たちのもとに来てく
ださったのです。(31-32)
         (エレミヤ書17章14節 新改訳2017 p1322)
 主イエスをご自分のもとから地上に送られた父なる神様
は、すべての人の負うべき罪の罰を十字架にかかられた
御子イエス様に負わせられました。
                 (イザヤ書53章4-6節p1259)
 主イエスの十字架によって私たちは癒され、罪から救わ
れる道が開かれたのです。
 主イエスは今も「…わたしのもとに来なさい。…」
 (マタイの福音書11章28節p21)、「わたしについて来
なさい」と私たちを招いておられます。
 主の招きに応え、主のみもとに近づき、信じ従う者と
ならせていただきましょう。