ヨハネの福音書7章14節~31節

イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あな
たがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知
っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。
わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは
知りません。わたしはその方を知っています。なぜなら、わ
たしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされ
たからです。」
         ヨハネの福音書7章28-29節(p193)

序論)エルサレムでは仮庵の祭りが行われていました。
(9月末~10月頃に行われる収穫感謝祭)ユダヤの各地
から大勢の人たちが集まっていました。
 主イエスはエルサレムに行かれ、宮(神殿)で教えられま
す。(14)
今回の箇所を通して示されることは…

1.父なる神からの教え 
 人々は主イエスの教えに驚きました。(15)

ここでの「学問」は、ラビ(律法の教師)から受ける旧約聖
書に関する教えです。
 主イエスのその学問の優れていることに驚いたユダヤ人
たちはその知識の由来について思いめぐらしました。(15)
主はご自身の教えが神ご自身から与えられたものである
ことを告げられます。(16)
 そのことが理解できないのは、ユダヤ人たちが神の御心
を行おうとしていないことに原因があると指摘されました。
(17)
 主イエスを亡き者にしようと企む彼らは、すでに神の
御心に反していました。(19)
 群衆は主を悪霊につかれている者とみなします。(20)
 主イエスは安息日の出来事をもとに彼らに語られます。
(21-24)
 「一つのわざ」(21)は、かつて主が安息日にベテスダの
池で病人をいやされました。(5章2-9、16節p185)
 モーセの律法の中で割礼を行うことが定められ、それは
安息日にもなされていました。(22)
         (レビ記12章3節p196)
 しかし、安息日に主イエスがいやしのわざを成したこと
で、彼らは主を非難したのです。それは安息日を定められ
た神様の御心を受け止めようとせず、「うわべで人をさば
くことだ」と主は言われます。(23-24)

2.父なる神が御子を遣わされた 
 宗教指導者たちの殺意や脅迫にも関わらず、主イエスは

公然と教えを語り続けられました。(25-26)
 人々はメシア(ヘブライ語で「救い主」)は、知らない場
所から突如現れると思い込んでいたので、その出自を知っ
ていたイエス様を受け入れようとしませんでした。(27)
 主イエスはご自分が父なる神様のもとから遣わされたこ
とを告げられます。(28-29)
 しかし、彼らは、父なる神様を真に知らないので、
主イエスをキリスト(ギリシア語で「救い主」)と認めよう
としなかったのです。
 主イエスを捕えてユダヤ当局者(宗教指導者たち)に引き
渡そうとしましたが、誰も主イエスに手をかける者はいま
せんでした。(30)
 それは主イエスが十字架にかかられる時が「まだ来てい
なかったから」でした。
 群衆のうちの多くの者は、主イエスのみことばに心を
動かされたからではなく、主が行われた「多くのしるし」
を見て信じました。(31)
 そのような群衆の動きを知った宗教指導者たちは、すぐ
にも主イエスを捕えようとしましたが、その目的を達する
ことができませんでした。(32)
 神様が定められた時が来るまで「もう少しの間」があっ
たのです。(33)

結論)父なる神様が地上に遣わされた御子イエス様は神様
の御心に従われ、十字架にかかられました。
      (ピリピ人への手紙2章6-9節p396)
 そして、三日後に復活され、昇天し、父なる神様のみも
とに帰られました。(33)
      (ピリピ人への手紙2章9-11節)
 主イエスは、ただ父なる神様の栄誉を求めて歩まれまし
た。(18)
 父なる神様が主イエスを通して成されたみわざによって
私たちは救いの恵みをいただきました。私たちも神様の栄
光のため、歩んでまいりましょう。
    (コリント人への手紙第一6章19-20節p334)

(参考)
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)
         (ドイツの作曲家、音楽家)

楽譜の最初J.J.JesuJuvaの略
      (ラテン語で「イエスよ、助けたまえ。」

楽譜の最後S.D.G.SoliDeoGloriaの略
      (ラテン語で「神のみに栄光あれ」