わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこの
パンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与え
るパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。
ヨハネの福音書6章51節(p190)
序 論) ガリラヤで五千人にパンを与える奇跡(1-15)、ガ
リラヤ湖の上を歩く奇跡(16-21)をなされた主イエスは
ガリラヤの人たちに話されます。(22-40) それを聞いた
人たちに対してさらに主は語られます。今回の箇所から示
されることは…
1.信じる者は永遠のいのちを持っている
主イエスの地上の父母(ヨセフとマリア)のことを知って
いるユダヤ人たちには、「…天から下って来た…」という
みことばが理解できませんでした。(41-42)
父なる神様が御子イエス様を地上に送られ、救いのみわ
ざを成そうとしておられました。神様が引き寄せてくださ
らなければ誰もこの救いにあずかることはできません。
(44)
神の民が「…みな、神によって教えられる…」というイ
ザヤの預言(イザヤ書54章13節p1261)が成就するときが来
たのです。(45)
主イエスを通して父なる神の御声を聞き、主を信じる者
は天からのパン(救いの恵み)にあずかることができるのです。
出エジプトのとき、荒野でイスラエルの民に与えられた
マナは、後に来られる救い主イエス様を予表するものでし
た。(49) (出エジプト記16章35節p129)
後に主イエスが十字架の上で、ご自身の肉と血を犠牲と
してささげてくださったことにより、私たちが罪から救わ
れる道が開かれたのです。
それゆえに主イエスを「信じる者は永遠のいのちを持っ
ている」のです。(47)
永遠のいのちに至る「生けるパン」は、主イエスの十字
架の死が私の罪のための「贖(あがな)いの死」であったこ
とを信じ受け入れる者に与えられます。
2. まことの食べ物、まことの飲み物
主イエスのみことばを聞いていたユダヤ人たちは、その
意味を理解することができませんでした。(53)
主ご自身の「肉を食べ、血を飲む」とは、主イエスの十
字架による救いを私自身のこととして信じ、受け入れるこ
とを意味しています。(54-55)
また「まことの食べ物」、「まことの飲み物」は後に主
イエスが制定される聖餐(主の晩餐)のパンとぶどう酒のこ
とを暗示しています。(56)
裂かれたパンは、十字架で裂かれた主イエスの御体、
ぶどう酒は、十字架で流された主の血を意味しています。
「生ける父」(父なる神様)が「わたし」(御子イエス様)
を地上に遣わされました。主イエスは、父なる神様との深
い交わりを持ちつつ、歩まれました。(57)
「わたしを食べる者」(主イエスを信じる者)も主との交
わりの中で、生かされるのです。
後の最後の晩餐のとき、主イエスは弟子たちに次のよう
に語られます。
「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわた
しのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいること
が、あなたがたにわかります。」
(ヨハネの福音書14章20節p214)
主イエスの十字架と復活、聖霊降臨によってこのみこと
ばが、今、信じる者のうちに実現しています。
結 論)「先祖が食べて、なお死んだようなもの」(58)は、
49節で語られたマナのことです。マナは肉体のいのちの
ために必要な食べ物でした。それは一時的なものです。
しかし、「天から下って来た生けるパン」(51)である
主イエスを信じ、その肉と血にあずかる者は永遠のいのち
に生かされるのです。
主ご自身の肉と血を指し示す聖餐の恵みにあずかりつつ、
主との人格的な交わり、三位一体の神様との交わりの中に
入れられ、主に従う道を歩み続けてまいりましょう。
(参考)
ハイデルベルク信仰問答81 聖餐について
問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
答 自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの
苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われる
ことをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰
が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人た
ちです。