ルカの福音書5章12~16節

その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、
お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよく
なれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた
       ルカの福音書5章12b~13節(p118)

序 論) ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)での出来事(5章1-11
節)の後、主イエスは弟子たちとガリラヤで宣教を続けられ
ました。主がある町におられたとき、ツァラアトに冒され
た人に出会われます。そこで起こった出来事を通して示さ
れることは…

1.主の御前でひれ伏す 
 「ツァラアト」は、当時、治すのが難しい皮膚病の総称

でした。
 伝染力が強く、律法により汚れた病とされ、その病人に
対して様々な厳しい規定が定められていました。
                   (レビ記13章~14章 p196)
 ツァラアト患者は、病気であることを周りに知らせ、社
会的にも隔離され、宿営の外でひとりで生活しなければな
りませんでした。(レビ記13章45-46節p199)
 この「全身ツァラアトに冒された人」(12)は、主イエス
がこの町におられることを聞き、主のもとに来ました。あ
るいは誰かに連れられて来たのかもしません。
 彼は、主の御前でひれ伏しました。(12)
 彼は、イエス様に向かって「主よ」と呼びかけます。
 彼は、主イエスに「この病をいやしてください」とは
言わず、「お心一つで…」と言いました。
 あなたが願ってくださるだけで、私はきよくされるので
す、という思いを込めて、このように言い、へりくだって
主にお委ねしました。
 主の御前にひれ伏した彼の姿が、旧約聖書の哀歌の言葉
と重なります。「口を土のちりにつけよ。もしかすると希
望があるかもしれない。」(哀歌3章29節p1408)
 この動作は、神様の御前にへりくだり、従うことやひれ
伏し祈ることを示しています。(哀歌は、バビロン捕囚
(BC605年~586年頃)に現わされた、神様のさばきの厳
しさと共に、その後にある回復の恵みを示唆しています。)

 2. 主は触れられ、いやされる  
 ツァラアト患者に触れると、その人も汚れると言われて
いました。
 しかし、主イエスは御手を伸ばし、彼に触れられます。
そして、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。
すると彼はいやされ、きよめられたのです。(13)
 主イエスは、彼にこのことを誰にも話さないようにと
言われ、レビ記に定められた律法に従うように命じられま
した。(14)(レビ記14章2-32節p200)
 いやされたこの人が律法に従って、社会復帰することを
主は願われこのように言われたのです。そうすれば、彼の
身に起こったことは自然に証しされます。
 しかし、主イエスのみ思いとは違い、奇跡のみわざを
通して、主のうわさはますます広がりました。そして、
人々が主のもとに集まって来ました。(15)
 けれども、主は寂しい所に退かれ、父なる神様に祈ると
き、神様との交わりのときを持たれました。(16)
 この後、主イエスと洗礼者ヨハネが遣わした人たちとの
やりとりの中で、主はご自身が成しておられたみわざに
ついて語られます。(ルカの福音書7章22節p124)
 「ツァラアトに冒された者たちがきよめられる」という
奇跡のみわざも、主イエスが「おいでになるはずの方」
救い主であることを証ししていたのです。
 そして、この後、主イエスは、すべての人の救いの道を
開くために十字架に向かわれます。

結 論)主イエスは父なる神様のみこころを行うため地上に
来られ、十字架の死と復活によって救いのみわざを成し遂
げられました。
 父なる神様は、私たちが御子イエス様のみもとに来るこ
と、御子を信じて罪から救われ、永遠のいのちに生かされ
ることを願っておられます。
 病がいやされ、きよめられたこの人のように私たちも
へりくだって、主イエスのみもとに行き、主に求めてまい
りましょう。
 主イエスは私たちの祈りや願いを聞き、それぞれにふさ
わしい形でそれらに応えてくださり、私たちを通して、そ
のお働きを進めて行かれます。
 聖霊とみことばによって今も主イエスは私たちに語りか
けられ、触れてくださり、交わりをもたれます。
 主ご自身をさらに求め、主とともに歩んでまいりましょう。