ヨハネの福音書6章22節~33節

それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、
あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパン
を与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天
からのまことのパンを与えてくださるのです。
             ヨハネの福音書6章32節 (p.189)

序 論) 五千人もの人々にパンと魚を分け与えるみわざ
(第四のしるし)(6章9-14節)、ガリラヤ湖の上を歩かれ
る奇跡(第五のしるし)(6章19節)を成された主イエスは、
カペナウムにおられました。
 その翌日、ガリラヤの群衆は、主イエスを捜して、カペ
ナウムに向かいます。(22-23)
 彼らは主のもとに来て尋ねます。(25)
主が彼らに語られたことを通して示されることは…

1.永遠のいのちに至る食べ物
 主イエスの言われる「しるし」は、ご自身が神の御子で
あり、救い主(キリスト)であることを証しするみわざでした。
 しかし、群衆が追いかけて来たのは、しるしを見て
主イエスを信じたからではありませんでした。それは、パ
ンを食べた満腹感の故であることを主は指摘されたのです。
 (26)
 また彼らは主イエスを王にしたいという思いも持って
いました。(15) 彼らは自分たちのうちの霊的な渇き(真の
神を求める心)に気づいていなかったのです。
 主イエスはそのような彼らに語られます。(27)
「人の子」は主イエスご自身のことです。主は「いつま
でもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」を与えて
くださいます。(27)
 主イエスだけが、神様を求める私たちの霊的な飢え渇き
を満たしてくださるお方です。
 それは父なる神様が認証しておられるのです。(27c)

 2. 神様が遣わされたお方
 さらに彼らは主イエスに問いました。(28) ここでの
「神のわざ」の「わざ」は原語では複数形になっています。
彼らは、いくつかのことをしなければならない、と思って
いたのです。
 それに対して主は、答えられます。(29) 主の言われる
「わざ」は原語では単数形になっています。本当に大切な
こと、するべきことは、一つだけです。それは神様が地上
に遣わされたお方、イエス様を信じることなのです。
 しかし、ガリラヤ人たちはさらにしるしを要求します。
(30) 前日、彼らは主イエスのパンの奇跡を見ました。
それが十分な「しるし」であるはずです。
 それなのに彼らは、かつてイスラエルの民に荒野でマナ
が与えられたときのような「しるし」を求めました。
 (30-31) 彼らが引用したのは詩篇78篇24節(p1014)
の言葉です。
 モーセに導かれたイエスラエルの民は荒野でマナを食べ
ました。(出エジプト記16章13-36節p128)
 彼らが求めたのは、第二のモーセとしての「しるし」で
した。彼らは、天からのパンを与えて自分たちを養い、満
腹させてくれるモーセのような預言者を求めていたのです。
 彼らの根本的な動機は物質的な欲(貪欲)でした。
  (「貪欲は偶像礼拝です。」
コロサイ人へ手紙3章5節p404)
 主イエスは彼らの問いに答えて二つのことを述べられま
す。
 一つは、イスラエルの民にマナを与えられたのは、モー
セではなく神様でした。(32)
 もう一つは、人間に必要なまことの食べ物は、物質的な食
物ではなく、まことのいのちを与える「天からのまことの
パン」であることでした。(32)
 それを「神のパン」とも言われました。(33)それは、
主イエスご自身のことを意味しています。
 主イエスは神様が遣わされたお方であり、天から下って
来られたお方です。          

結 論)ここで言われている「世」は、世界中の人たちのこ
とです。(33) 父なる神様は私たちを永遠のいのちに生か
すために御子イエス様を与えてくださいました。
 (ヨハネの福音書3章16-17節p180)
「なくなってしまう食べ物」(27)は、物質的な食べ物の
ことだけではなくいつかはなくなってしまう有限なものや
偶像を象徴しています。それは死を越えて私たちを生かす
ものではありません。
 罪人である私たちのために十字架で死なれ、復活された
神の御子イエス様を救い主と信じること、そのことによっ
てのみ私たちは永遠のいのちに生かされるのです。
 主イエスを信じ、従い、主と共にいのちの道を歩んでま
いりましょう。