そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてか
ら、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにし
て、彼らが望むだけ与えられた。
ヨハネの福音書6章11節 (p.188)
序 論) 主イエスは弟子たちと共にエルサレムから再び
ガリラヤに戻って来られました。
主はガリラヤ湖(ティベリア湖)の向こう岸に行かれます。
(1) そこで主が成されたこととその出来事を通して示さ
れることは…
1.弟子たちと少年
主イエスは岸に着かれました。そのときから大勢の群衆
がついて行きました。(2) それは以前、すでに行われたし
るしを見たからでした。
主は山に登られました。過越祭が近づいている頃でした。
(3-4)(春の時期)
(「青草」が生えている頃 マルコ6章39節p78)
主イエスは大勢の群衆に与えられる食べ物について弟子
のピリポに尋ねられます。それは彼を試されるためでした。
(5-6)
「二百デナリ」(7)は、当時の約二百日分の賃金に相当す
る額でした。それでも五千人分ものパンを一時に集めるの
は不可能でした。
これまで主イエスは弟子たちにご自身に対する信仰が与
えられるようにみことばを語り、しるしを成さって来られ
ました。(ヨハネの福音書4章31-34節p183等)
このときも主は、弟子たちがご自身に対して信仰をもっ
て、応答することを願っておられたのです。
しかし、ピリポをはじめ、他の弟子たちも今の現実しか
見えていませんでした。
弟子のアンデレはシモン・ペテロの兄です。(8) 彼は、
大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年を主イエスのも
とに連れて来ました。(9) そのアンデレ自身も「それが何
になるでしょう」と言いました。
(「大麦のパン」は貧しい人々の安いパン。ここでの「魚」
は小さな干し魚(ざかな)か焼き魚(ざかな))
しかし、少年は、これらが何かの役に立つのならと思っ
て、主イエスにお渡ししたことでしょう。
2. 五千人にパンを与えられる奇跡(第四のしるし)
主イエスは人々を座らせるように弟子たちに言われまし
た。(10) 男性だけでおよそ五千人ですから、女性や子ど
もを加えればもっと大勢の人たちがいました。
主イエスは少年からパンを受け取られ、感謝の祈りをさ
さげ、五千人を超える大群衆に分け与えられたのです。小
さい魚も同じようにして、「望むだけ与えられ」まし
た。(11)
パンと魚の量は奇跡的に増やされ、彼らが十分食べても、
さらに余るほどになりました。(12)
その食べ残りの余ったパン切れを集めると、十二のかご
がいっぱいになりました。(13)
この「しるし」を見たガリラヤの人たちは主イエスを
「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」
と認めました。(14)
旧約時代の出エジプトの後、モーセは天からのマナで荒
野を旅するイスラエルの民を養いました。
(出エジプト記16章13-36節p128)
ガリラヤの人々は、主イエスこそがモーセに告げられて
いた預言者だと思ったのです。
(申命記18章18節p348)
熱狂したガリラヤの大群衆は、さらに主イエスを政治的
な王に祭り上げようとします。主は、そのような彼らの意
図を見抜かれ、それを避けるために再びただ一人で山に退
かれました。(15)
結 論)主イエスがこの世に来られた第一の目的は、人々の
物質的必要を満たすことではなく、主を信じる者が滅びる
ことなく、永遠のいのちを持つためでした。
(ヨハネの福音書3章16節p180)
(「無駄になる」(12)とここでの「滅びる」は原語では
同じ言葉が用いられている。)
主イエスは十字架の死と復活によって私たちを罪の滅び
から救い、永遠のいのちに生かしてくださいました。
復活の後、天に昇られた主イエスは、今、神の右の座に
着かれました。主は天地の主権者であられます。
(詩篇110篇1節、4節p1053)
私たちは、真の王、永遠の大祭司であられる主イエスに
さらに信頼し、御手にお委ねして歩みます。
ここでのパンや魚は私たちのささげもの、奉仕、あるい
は私たち自身だと受け止めることができます。
私たちは、このときの弟子たちと同じように「…では足
りません」(「…しかありません」)とか、「…が何になる
でしょう」と思ってしまいやすい者です。
しかし、たとえ小さなささげものであったとしても、そ
れを主イエスの御手にささげるとき、主はそれらを用いて
ご自身の栄光を現わしてくださいます。そして、私たちを
大きな祝福をもって満たしてくださるのです。
私たちのささげものがたとえわずかであったとしても
主の御手を信頼し、感謝をもってささげてまいりましょう。