ヨハネの福音書5章9b~18節

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで
働いておられます。それでわたしも働いているのです。」

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするよ
うになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、
神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
       ヨハネの福音書 5章17-18節 (p.185)

序 論)エルサレムのベテスダの池の近くに、38年間、
病気を患っていた一人の男性がいました。安息日に主イエスは、
彼に御声をかけられ、いやされました。 (8-9a)
 その後の主イエスの言行を通して示されることは…

1.安息日のいやし
 主イエスがいやしのみわざをなされた日が安息日だった
ことがユダヤ人たちの反感を呼び起こしました。
 ユダヤ人たちは安息日に許される労働とそうでないもの
とについて、そうでないものについて39箇条に及ぶ規定
を持っていました。
 その中の一つは、安息日に荷物を運ぶことを禁じていま
した。そのため、病がいやされたこの男の人が床を取り上
げて歩いたことが律法に違反するとみなされたのです。
 ユダヤ人たちは、彼をいやした人が誰かを尋ねますが、
彼自身もそれがどなたであるか知りませんでした。
  (11-13a) 主イエスはすでにそこを立ち去っておられた
のです。(13b)
 その後、主イエスは宮(神殿)の中で彼を見つけ、御声を
かけられました。(14)
 ここで言われている「罪」とは、神様に心を向けないこ
とだと受け止めることができます。
 彼は38年間、病気であったため立ち上がる希望を失っ
ていました。しかし、主イエスが彼のもとに来られ、御声
をかけて、立ち上がらせてくださいました。(8-9a)
 主イエスは彼にいやされる以前の心の状態に戻ってしま
うのでなく、いやしてくださった主のことを忘れず、
神様を仰いで歩んでいくことを願っておられたのです。
 私たちも、日常の歩みの中で、主イエスに心を向けるこ
とを忘れやすい者です。一日の中で、聖書を読み、みこと
ばを黙想し、祈るときを持ちましょう。

2. 父なる神と御子イエス様
 この男の人は、ユダヤ人たちに自分を直してくださった
方が主イエスであることを告げました。(15)
 このことによって、ユダヤ人は、主イエスを迫害し、
主と彼らの間に論争が起こります。(16)
 主イエスはしばしば、いやしのみわざを安息日になされ
ました。(マルコの福音書1章1-17節p66等)
 それは、ユダヤ人たちに安息日は何のためにあるのか、
ということを教え、示されるためでした。
 本来、安息日は、神様が万物の創造のみわざを終えられ
たことを祝う日でした。
(創世記2章1-3節p2
   出エジプト記20章8-11節p135)
 しかし、人間が罪を犯したために、この世は「罪の世」
になってしまいました。
(創世記3章、6章5節、11章4節等参照)
 出エジプトの後、ユダヤの民にとって、安息日は
出エジプトの恵みを思い起す日ともなりました。
                   (申命記5章12-15節p324)
 主イエスはユダヤ人たちに答えられます。(17)
 主が「わたしの父」と呼ばれた父なる神様は、人が罪
から救われ、ご自身のもとに戻ってくるために働き続けてお
られます。
 父なる神様と共に、御子イエス様も人の救いのために働
いておられたのです。
 ユダヤ人たちは、主イエスを、安息日を破り、神を自分
の父と呼び、自分を神と等しくする者として糾弾し、
主に対する殺意を強めていきました。(18)

結 論)私たちもかつては神様を知らず、あがめることもで
なかった者でした。しかし、今は、主イエスの救いにあず
かり、父なる神様を礼拝する者とされています。
 私たちキリスト者にとって安息日は、土曜日から「週の
初めの日」(日曜日)となりました。
 主イエスが十字架にかかられ、復活されたのが週の初め
の日だからです。(ヨハネの福音書20章1節p227)
 主イエスの復活を記念し、そのことを思い起こし、日曜
日ごとに教会は礼拝を続けてきました。
 私たちも日曜日ごとに神様が私たちにしてくださったこ
とを思い起こし、新たな力をいただいて新しい一週間を歩
みます。
 今も、父なる神様と御子イエス様は聖霊なる神と共に働
いておられます。
 私たちは、主イエスのみもとで安息し、新しい命に生か
されて、日々の務めを果たしてまいりましょう。