あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。
そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈
りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなた
の父が、あなたに報いてくださいます。
マタイ6章6節 (p.9)
序 論)マタイの福音書5~7章は、「山上の説教」
(「山上の垂訓」)と言われる箇所です。主イエスが特に
弟子たちに対して語られたことが記されています。
6章の前半部分で主イエスは当時のユダヤ人たちの
宗教生活の中心にあった施し・祈り・断食という三つの
習慣が偽善的なものに陥っていたことを指摘されました。
(1-18)
そして弟子たちにこれらのことをどのようにすべきかを
教えられました。
今回の箇所から示されることは…
本 論)
1、隠れたところで見ておられるあなたの父
三つの善行(施し・祈り・断食)は、律法の実践において
律法学者やパリサイ人が特に重んじたものでした。(1)
施しを「人にほめてもらおう」という間違った動機から
人にしてはいけない、と言われます。(2)
そうでないと表向きは人のためでも、実際は自分のため
にしているのだから「偽善者」となってしまいます。
彼らは人から賞賛を得ても、神様から報いを得ることは
できません。
施しをするときは「善行をしているのだ」と意識しない
ことです。(3)
施しは他人への愛を動機としてすることです。それを
神様は「隠れたところで見ておられ」、報いてくださるの
です。(4)
2、隠れたところにおられるあなたの父
主イエスが「偽善者」と呼ばれた律法学者やパリサイ人
たちは、人からの賞賛を受けるために祈っていました。(5)
祈りを人にささげているのか、それとも神様にささげてい
るのかが問われています。
主イエスは、神様を「父」と親しく呼ばれました。(6)
そして、神様は「あなたの父」だと言われます。
御子イエス様の父なる神様は私たち一人ひとりにとって
「私の神」でもあられるのです。
また主イエスは、神様は「隠れたところにおられる」と
言われます。(6) 神様はどこにでもおられるお方です。で
はどうしてここでは、このように仰るのでしょう。
それは、私たちが、父なる神様と私との「一対一」の祈
りを大切にし、私たちが神様と親密な深い交わりを持つこ
とを願っておられるからではないでしょうか。
6節の文語訳「なんぢ祈る時は厳密なる室にいり戸を閉
て…祈れ」から一人ひそかに祈る「密室の祈り」という言
い方が生まれたという説があるそうです。
一日の生活の中のどこかで神様の御前に一人出て、祈り、
神様との交わりを深める時間を持ちましょう。
真の神様を知らない異邦人は同じ言葉を何度も繰り返し
たり、長い祈りをしたりしていました。(7)
祈りの時間の長さや祈りの言葉より、祈りをささげるお
方(父なる神様)がどのような方であるかを知ることが大切
なのです。
父なる神様は、私たちが願う以前に私たちの必要なもの
を知っておられます。(8)
このように主イエスは父なる神様がどのようなお方かを
教えてくださいました。
私たちは父なる神様に信頼し、御子イエス様の御名を通
して祈ります。
結 論)この後、主イエスは弟子たちに「あなたがたはこう
祈りなさい。…」(9-13)と祈りの言葉を教えてください
ました。これは「主の祈り」と呼ばれています。
ここでは、私たちの必要を知っておられ、私たちの理解
を超えた全能の神様、「天の父」への呼びかけから始まっ
ています。
「主の祈り」は短い祈りですが、御名、御国、みこころ
、…等、一つ一つの言葉に汲み尽くせない深い意味が込め
られています。そして、全世界の神の民(キリスト者)と共
にささげる祈りです。
「私の父」に一人で祈る祈り、「私たちの父」に皆と
心を合わせて祈る祈り(礼拝や祈祷会等)、どちらも大切で
あり、どちらも神様からの恵みなのです。
父なる神様に祈ることができる恵み、主の祈りをささげ
ることができる恵みを覚え、新しい一年も主イエスと共に
父なる神様に祈りながら歩んでまいりましょう。
(参考文献)
『聖書通読にチャレンジしよう!』(下川友也)
『祈りへの道』(加藤常昭)