あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができ
ません。…このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせな
さい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあな
たがたの父をあがめるようになるためです。
マタイ5章14-16節(p.7)
序 論)マタイの福音書5~7章は、「山上の説教」
(「山上の垂訓」)と言われる箇所です。主イエスが特に
弟子たちに対して語られました。
主イエスの来臨を告げる聖書箇所や今回の箇所を通して示
されることは…
本 論)
1、光として来られた主イエス
聖書は、主イエスご自身が「光」であると告げています。
「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」 (ヨハネの福音書1章5節p175)
主イエスは、ガリラヤのナザレという町で成長されま
した。
ガリラヤは、かつては北イスラエルの地でしたが、アッ
シリアに滅ぼされその支配下に入りました。(BC722年)
そのため、ユダヤの人たちは、ガリラヤを「異邦の民の
ガリラヤ」と呼び、その地の人たちを蔑視するようになり
ました。(イザヤ書9章1節p1180)
こうして長い間、彼らは「闇の中」、「死の陰の地」に
いたのです。しかし、やがて彼らは大きな光を見、彼らの
上に光が昇る、と預言者イザヤは語りました。
(BC700年ごろ)
「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地
に住んでいた者たちの上に光が輝く。」
(イザヤ書9章2節p1180)
主イエスこそ、その光として、この地に来てくださった
のです。
私たちもかつては、罪と死の暗闇の中にいたものでした。
しかし、イエスは私たちのもとにも来てくださり、主によ
って、闇から光へと移されたのです。
(使徒の働き26章18節p290)
2、地の塩、世の光として
主イエスは、ご自身を信じる人を「地の塩」、「世の光」
だとおっしゃいます。(13-14)ここで言われる「地」や「世」
とは私たちが置かれている場所や世界のことを現わしていま
す。
主イエスを信じ、主のご愛と恵みをいただいた私たち
(キリスト者)は、光である主と同じ性質を持つ者へと変えられ
ていきます。そうして、この世の闇を照らす光とされます。
主イエスは父なる神様に従順に従われ、人々を愛されまし
た。あわれみ深く、罪人を赦し、正しく、謙遜に歩まれました。
世の中にはまだまだ争いや悲しいこと、理不尽なことが
たくさんあります。しかし、私たちはその中にあって、神様の
ご愛やあわれみ、正しさを現わしていく光なのです。
塩には、料理を味付けする役目があります。また、食物
が腐るのを防ぐ効果を持ち、防腐剤となります。
私たちが生きている「世」(世界)は、罪で腐敗していて、
様々な苦しみや悲しみがあります。そのような中で私たち
は、社会が人の罪によって悪くなるのを防ぎ、神様のみこ
ころを示していく役割を担っています。
他の聖書の箇所でも、主のご愛を内にいただいての言動
が「塩」にたとえて語られています。
(マルコの福音書9章49-50節p86)
(コロサイ人への手紙4章6節p406)
結 論) 主イエスに心を向け、信じ受け入れるとき、私たちは
聖霊によってうちに光をいただきます。
私たちは主イエスの恵みによって「地の塩、世の光」と
されているのです。
そして、塩気を失っていないか、光を隠していないか、
とも問われています。(13bc、14b-15)
この国では、キリスト者は少数ですが、神様は私たちを
通して、主イエスのご愛と恵みを証ししようとしておられます。
主イエスを信じ、神様のみこころに従っていくとき、
私たちの言動が周りの人たちに良い影響を与えていきます。
その人たちの中から、主イエスのご愛を知り、神様をあがめ
る人たちが起こされていきます。それが「光を輝かせる」とい
うことなのです。(16)
聖霊と聖書のみことばを通して主イエスにさらに結び付き、
新しい一年を地の塩、世の光として歩んでまいりましょう。
(参考)
『ジェーン・エア』(シャーロット・ブロンテ
(1816-1855)
イギリスの小説家)