マルコの福音書2章18~22節


講壇交換礼拝
説 教 題: 「キリストを喜ぶという新しさ」
説 教 者:田上 篤志師 宇都宮共同教会牧師

信仰生活において苦行を積むことに価値を見出し、断食を大切に守り行っていたヨハネの弟子やパリサイ人たちに比べ、断食を行わないキリストの弟子たちの信仰生活は、当時の人々には熱心さに欠ける気楽なものに映っていたのかもしれません。それゆえに人々はキリストに「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と尋ねずにはおれませんでした。

一方、キリストの弟子たちは、ヨハネの弟子やパリサイ人たちとは異なった信仰生活の価値を見出していました。その価値とは、キリストが一緒にいてくださる喜びでした。――イエスさまは、常に変わることのない慈しみをもって私たちと共にいてくださる。なんと幸いなことだろう……というその喜びが信仰生活の基調となっていました。

マルティン・ルターのこんなエピソードがあります。ルターがある事でひどく落ち込んで、気分が滅入ってしまっていたときのことです。その様子を見ていた奥さんのカタリーナが、これみよがしに喪服を着てルターの周りを行ったり来たりして歩いた。それに気がついたルターは「おや、誰かが亡くなったのかね」と尋ねると、カタリーナはこう答えました。「ええ、あなたの一番大切な方が亡くなったのではありませんか。あなたがそんなに落ち込んでいるは、キリストがお亡くなりになったからでしょう。」 それを聞いてルターは、はっと気がついた。――そうだ、キリストは生きておられる。そして今も一緒にいてくださっているではないか! そうしてルターは立ち直ったのでした。問題が解決されたから立ち直ったのではありません。キリストが一緒にいてくださる喜びを回復して立ち直ったのです。

キリストが一緒にいてくださることを信じて、それを喜びとする。これこそは、キリストの弟子たちに与えられていた信仰における新しさでした。キリストこそは「新しい布切れ」「新しいぶどう酒」なのです。苦行に価値を置く信仰生活は「古い衣」「古い革袋」のように、キリストを喜ぶ新しさを受けとめることができません。悩みの時にはその悩みを申し述べ、喜びの時にはその喜びを感謝と共に申しあげる相手としてキリストが共にいてくださいます。そのキリストに心を向けることで私たちは「新しい革袋」としての信仰に生きはじめます。そこに、主われらと共に! という喜びが何度でも新しく注がれるのです。