イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。
いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して
死ぬことがありません。あなたは、このことを信じます
か。」 ヨハネ 11章25-26節 (p.205)
序 論)ベタニアという村に姉妹であるマルタとマリヤ、
そして弟のラザロが住んでいました。主イエスは彼らと親
しくしておられました。(1-2)
あるとき、主は、ラザロが重篤な状態にあるという知ら
せを受けられました。(3)
主イエスの言行を通して示されることは…
本 論)
1、ラザロの死の知らせ
主イエスは、その知らせを受けられたとき、「この病気
は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。
…」(4)と言われ、直ぐにはベタニアに向かわれませんで
した。主には弟子たちやマルタたちの及ばぬお考え、ご計
画を持っておられたのです。
ベタニアは、エルサレムからわずか3キロほどの所で
す。エルサレムのユダヤ人たち(宗教指導者たち)は、
主イエスを亡き者にしようと画策していました。
それでも、主イエスは神の栄光を現わすために進まれた
のです。
主イエスと弟子たちがベタニヤに着かれたときは、ラザ
ロが死んですでに四日が経っていました。
(ユダヤでは、埋葬から一週間にわたって葬儀が行われ、
遺族が深い悲しみの日々を過ごし、人々の弔問を受けまし
た。この慣習は、今日も行われているそうです。)
2、わたしはよみがえりです。いのちです。
マルタは、主イエスが来られたと聞いて、出迎えに行き
ました。(20a)
21節のマルタの言葉には、主イエスを責める思いと共
に、「あなたがおられたら弟は必ず助かったでしょう。」
との、主に対する信仰が込められていました。
彼女は続いて信仰の言葉を語ります。(22)
主イエスは、これからすぐ起こるラザロの肉体のよみが
えりについて語られます。(23)
しかし、マルタは、それを、「終わりの日」(やがてこ
の世が終わり、新しく神の国が造られるとき)に実現する
こととしてしか受け止めることはできませんでした。
(24) 当時のユダヤ教では、終わりの日のからだのよみが
えりが一般に信じられていたのです。
主イエスはご自身が「よみがえり」であり「いのち」そ
のものであると宣言されました。(25b)
神の御子、救い主であるイエス様だけが、死者をよみが
えらせ、命をお与えになることができるお方です。
地上の生涯の中で主イエスとお出会いし、信じ従う者は
たとえ、地上の生涯を終えるとしても、主イエスとの交わ
りの中で、「永遠のいのち」に生かされるのです。 (25c、26a)
主イエスは、このように語られ、マルタに「あなたは、
このことを信じますか。」と問いかけられます。(26b)
マルタは主イエスのみことばがすべて理解できたわけで
はありませんでした。
しかし、彼女は主イエスのみことばを受け入れ、真心か
らの信仰を告白したのです。(27)
結 論)主イエスは、予告された通り(23)、ラザロをよ
みがえらされました。(11章43-44節)
この後、主イエスはご自身の十字架の死と復活によって、
ご自分が、「よみがえり」であり「いのち」であることを
明確に示されました。
人間にとって、死は最大で最後の敵です。その死をいの
ちの主であるイエス様は打ち破ってくださいました。
主イエスを信じる者には永遠のいのちが与えられます。
私たちはこの地上の生涯を終えた後に永遠のいのちにあず
かるのではありません。主イエスを信じたそのときから、
主イエスとの交わりによる新しいいのちに生かされる者と
なるのです。
マルタのように主イエスの問いに対して、「主よ、信じ
ます。」(27)(口語訳)と信仰告白し、主イエスとの交わり
の中で歩んでまいりましょう。