ヨハネの福音書3章16~21節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛
された。それは御子を信じる者が、一人として滅びること
なく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣
わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世
が救われるためである。
                        ヨハネ 3章16-17節 (p.180) 

序 論)主イエスとニコデモのやり取り(1-15)の後、この
福音書を書いたヨハネは、罪からの救いについて記します。
今回の箇所を通して示されることは…

本 論)
1、神は、世を愛された
 神様の愛の対象は、「世」(「この世」(口語訳)です。
 「世」とは神の選民イスラエルだけでなく、時代も民族も
超えた全人類のことです。(16a)
 その、「世」は、神様に愛されるだけの価値があったの
のでしょうか。まったくありませんでした。なぜなら、
神様を知らず、むしろ神様を否定し、無視し、信じない世
界が「世」だからです。
 神様を否定し、信じない人間は、神様の代わりに被造物
を神と崇める者となり、その偶像礼拝が自己中心の罪とな
って表れるのです。
 その結果、具体的な罪を犯す者となりました。
             (マルコの福音書7章20~23節p80)
 「この世」は「罪の世」であり、「汚れた世」です。
それにもかかわらず、神様は世を愛してくださったのです。
 人間の愛は「もし…ならば」の条件つきの愛です。しか
し、神の愛は「にもかかわらず」の、無条件で絶対的な愛
です。ですから、この神の愛の対象から漏れる人は一人も
いません。

2、そのひとり子をお与えになったほどに
 神様は絶対的な愛で「この世」を愛されたのです。さら
に驚くべきことは「神はそのひとり子をお与えになったほ
どに」(16a)愛してくださったのです。
 この「与える」は、「捨てる」、「明け渡す」という意
味を含む言葉です。
 神様は最大の愛の対象、喜びの源であるひとり子イエス
を犠牲にしてまで、世を愛されたのです。
 主イエスは、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の
子も上げられなければなりません。」(14)と語られまし
た。「人の子」は、主イエスがご自身のことを指すときに
使われる言葉です。
 これは、明らかに十字架のことを意味しています。です
から、神様がひとり子をお与えになった犠牲とは、
イエス・キリストの十字架のことです。
 神様は、一つの罪もない少しも汚れもないお方、捨てら
れる理由の全くないひとり子を十字架におかけになったほ
どに、この世を愛されたのです。
 神様はなぜ、それほどまでのことをされたのでしょうか。
ひとり子を十字架にかけるほど、世、すなわち、私たちを
愛してくださった、その愛は私たちに二つのことをもたら
しました。
 それは、永遠の滅びからの救いと永遠のいのちです。
(16b)
 主イエスがこの世に来られたのは、人をさばくためで
はありません。主は人を罪と滅びから救い、永遠のいのち
に生かすために来られました。(17)
 「神のひとり子の名」(18)、主イエスの御名は、主の
御力やご性質を含めた、主イエスご自身のことを示してい
ます。
 光である主イエスを受け入れず、信じない者は、闇を愛
して悪いことを行います。(18) 闇を選び取る生き方こ
そがすでに神のさばきなのです。(19-21)

結 論)闇から光へ、死からいのちへと移されるのに必要
なことは、神への悔い改めと、御子イエス様を信じること
です。
 悔い改めとは、心の罪、言葉の罪、行いの過ちを正直に
認めて神様に告白することです。
                         (Ⅰヨハネの手紙1章7節p478)
 御子を信じるとは、イエス・キリストが自分に代わって
十字架で死なれたことを信じることです。
 神様のご愛のゆえに、キリストによって世界のすべての
人々に救いの扉が開かれています。
 誰でも、キリストを信じ、心に受け入れるなら救われる
のです。
 ひとり子をお与えになったほどに私を愛してくださった
父なる神様のご愛に応えて、光なる御子イエス様を信じ、
愛して、この地上の生涯を歩んでまいりましょう。