ヨハネの福音書1章35~51節

その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と
言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、
イエスについて行った。その翌日、イエスはガリラヤに行
こうとされた。…そして、ピリポを見つけて、「わたしに
従って来なさい」と言われた。
                ヨハネ 1章35-37、43節 (p.177)

 序 論)洗礼者ヨハネは、自分は後から来られる救い主の
先駆者であることを語りました。その後、主イエスにお出
会いしたとき、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と証し
しました。
 主イエスにお出会いしたヨハネの二人の弟子やペテロた
ちの言動を通して示されることは…

本 論)
1、主イエスとの出会い
  洗礼者ヨハネの「二人の弟子」(35)の一人は「アンデ
レ」(40)です。もう一人は名前が記されていませんが、
この福音書を書いたヨハネ自身だと言われています。
 師であるヨハネの証しの言葉を聞き、彼らは主イエスに
ついて行きました。この「ついて行く」の原語は「従う」
とも訳せる言葉です。(36-37)  
 主イエスとのやりとりの後、彼らは、主イエスのもとに
とどまりました。(38-39)
 ここでの「泊まる、とどまる」の原語は、「つながる」
という意味でも用いられる言葉です。
    
(ヨハネの福音書15章4節p215参照)
 アンデレは自分の兄弟シモン・ペテロに、主イエスのこ
を伝えます。
アンデレは最初、主イエスに「ラビ(訳す
と、先生)」(38)と呼びけかけていました。しかし、ペテ
ロに伝えるときは、主イエスを「メシア(訳すと、キリス
ト)」と言っています。(41)
 アンデレたちは、主イエスを見、主との交わりを持つ中
で、信仰が与えられ、イエス様を「キリスト」(救い主)と
証しすることができたのです。
 主イエスはシモンを見られ、「ケファ」(当時、使われ
ていたアラム語で「岩」という意味。「ペテロ」はギリシ
ヤ語で「岩」という意味)と名前を付けられました。(42)

2、主は私たちを知っていてくださる
 翌日、主イエスは、ピリポに御声をかけられます。
(43-44)
 主イエスとお出会いし、主を信じたピリポは、ナタナエ
ルにそのことを伝えます。(45) 「モーセが律法の中に書
き、預言者も書いている方」とは、メシアのことです。
 そのメシアは「ナザレの人、ヨセフの子イエスです」と
の証しをピリポから聞いても、ナタナエルはすぐに信じる
ことはできませんでした。(46)  
 しかし、ピリポの言葉に促され、ナタナエルは主イエス
のもとに向かいました。主は、彼を見て言われます。(46-47)
     「いちじくの木の下にいる」は、当時、そこで、ラビよ
り(旧約)聖書の話を聞いたり、祈りをすることを意味して
いたと言われます。(48)
 彼は、神の民イスラエル人の一人として、偽りのない心
で、救い主を待ち望んでいたのです。
             
 (詩篇32篇1-2節p962参照)
 主イエスとの交わりを通して、ナタナエルは主を
「神の
イスラエルの王」と告白しました。(49)
 ナタナエルの言葉を受け、主イエスはイスラエルの父祖
ヤコブが「天のはしご」を見たことが記されている箇所を
もとに語られます。(50-51)(創世記28章12節p49)
 この主イエスのみことばは、様々な解釈がなされていま
すが、「天が開けて…」とあるように、主イエスによって
天と地が結ばれる、父なる神様と人との交わりが回復する
ことだと受け止めることができます。
 私たちは、主イエスを通して父なる神様に近づき、祈り、
交わりを持つことができるのです。

 結 論)アンデレ、シモン・ペテロ、ヨハネ、ナタナエル
は漁師の仕事をしていましたが、主イエスと出会い、それ
を捨てて、主イエスに従いました。
 彼らは、主イエスと共に歩み、訓練される中で信仰が強
められていきました。
 ナタナエルは、他の福音書で「バルトロマイ」と呼ばれ
ている人のことだと言われます。
          
(マルコの福音書3章17-18節p70等)
 ペテロも主イエスに従う中で様々な失敗や罪を犯してし
まったこともありましたが、主は彼を愛し、罪を赦されま
した。そして、彼はその名の通りに固い信仰をもって主に
従い通しました。
 今回の箇所に記されている五人の弟子たちは、後に使徒
と呼ばれるようになる人たちでした。
   
    ( 使徒の働き1章12節p233)
 主イエスは、弟子たちのことを知っておられたように
私たちのことをすべて知っておられるお方です。
 主イエスのもとにとどまり続け、従ってまいりましょう。