ヨハネの福音書10章1~15節

わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも
豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者
は羊たちのためにいのちを捨てます。
                     ヨハネ10章10b~11節(p.202)

 序 論)9章では主イエスが生まれつき目が不自由であっ
た人を見えるようにされたことが記されています。
 パリサイ人たちはその人を会堂から追い出してしまいま
した。(9章35節)
 その後、主イエスはこの「牧者のたとえ」をパリサイ人
たちに語られました。このたとえを通して示されることは

本 論)
1、牧者(羊飼い)であり、門である主イエス
 主イエスは、神様と人との関係を牧者(羊飼い)と羊にた
とえて語られます。
 羊は元来、臆病で弱い動物です。野獣等の外敵から守っ
てくれる羊飼いの世話なしに、生きていくことはできない
動物です。
 また羊は迷いやすく、安全で豊かな牧草地を自分で探す
こともできません。ですから牧草を食べに出かけるときも、
羊飼いの声を聞いてついて行かなければ、食べることはで
きないのです。(4)
 主イエスはご自分のことを羊飼いにたとえられました。                        (2)
 神様がイスラエルの民の名を呼ばれるように、主イエス
は私たち一人一人の名前を呼び、御声をかけてくださいま
す。(3)(イザヤ書43章1節p1237参照)
 「ほかの人たち」(5)は、ユダヤの宗教指導者やパリサ
イ人たちのことです。彼らは見えないのに「見える」と
言い張り、神様から託された羊(イスラエルの民)を間違っ
た方向に導いていました。(9章41節)
 主イエスはこのたとえを通して、彼らに自分たちの姿に
気づかせ、悔い改めに導こうとされました。しかし、
主イエスの言葉を聞いても、彼らは、このたとえの真意が
分かりませんでした。(6) 彼らは自分たちこそが神から群れ
(イスラエルの民)を託された牧者だと自認していたからです。
 主イエスは、「わたしは羊たちの門です。」(7)と言わ
れます。イエス様こそ、父なる神様への道、罪からの救い
の門なのです。(ヨハネ福音書14章6節p213)

2、真の羊飼いである主イエス
 羊飼いは、狼などの野獣から羊の群れを守るため自分の
身を危険にさらします。
 良い羊飼いである主イエスは、神の民を罪から救い、永
遠のいのちに生かすためにこの世に来てくださいました。
(10)
 羊のことを心にかけない無責任な「雇い人」(12-13)
や「盗人、強盗」(不誠実な指導者たち)(1)は、群れのた
めではなく、自分の利益のために行動していました。
 しかし、良い羊飼いキリストは群れの羊を盗人や獣から
守り、羊たちに命を与えるために、ご自分の命をお捨てに
なります。(11)
 パリサイ人たちは主イエスが神の御子、救い主(キリス
ト)であることがわかりませんでした。しかし、「わたし
のもの」(主イエスを信じ、従う人)は、主イエスが「良い
羊飼い」であることを知っています。
 そして主イエスも彼らのことを知っておられます。
(14)
 それは、父なる神様が御子イエス様を知っておられ、
御子イエス様が父なる神様を知っているのと同じだと言わ
れます。(15)
 9章の目の不自由だった人は、パリサイ人ではなく、
主イエスの言葉に従いました。そして主との交わりを通し
て、主イエスを救い主と信仰告白することができました。
彼も、真の羊飼いキリストにより救われた羊でした。                                           (9章38節)

結 論)「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨て
ます。」と言われた良い羊飼いである主イエスは、私たちを
罪から救うため十字架でご自分の命を捨ててくださいました。
 そして、復活され、私たちを永遠のいのちに生かして
くださっています。
 主イエスは、今も、私たちの良い羊飼いとして私たちを
導いてくださっています。
 (詩篇23篇1~2節p954)

   今日、さまざまな声が巷(ちまた)に満ちている中で、
神の御声は細く、小さく、静かで、耳をそばだてないと聞
こえません。でも、それは確かで、私たちを励まし、慰め、
生かす御声です。
 羊が羊飼いの声を聞き、それに従うように、私たちも
日々、聖書を読み、神の言葉を聞き、真の羊飼いに従い続
けましょう。