イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、
両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに
行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来
ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
ヨハネの福音書9章3-5節(p.199)
序 論)ある日、主イエスが弟子たちが道を歩いておられ
るとき、一人の生まれつき目の不自由な男の人に出会われ
ました。(1)
主イエスと弟子たちのやりとりと、その後、主が彼に成されたことを通して示されることは…
本 論)
1、シロアムの池でのいやし
弟子たちは主イエスに「この人が盲目で生まれたのは、
だれが罪を犯したからですか。…」(2)と尋ねました。
当時のユダヤ社会では、目が見えないなどの苦難は、過
去に何かの罪を犯した結果であると考えられていました。
しかし、主イエスは「…この人に神のわざが現れるため
です。」(4)と言われました。神様が、主イエスによって今
からこの人の上に成さろうとしておられることに心を向け
るようにと言われたのです。
「わたしを遣わされた方」(4)は、御子イエス様を地上に
送ってくださった父なる神様です。「昼のうちに」(4)は、
主イエスご自身が世(この地上)におられる間にという意味
です。
「わたしたち」(4)は、主イエスと弟子たちのことを表し
ています。主イエスにも、弟子たちにも、地上で成すべき
使命がありました。
その後、主イエスは、地に唾をし、泥を作り、盲人の目
に塗られました。(3)
さらに「シロアム」(「遣わされた者」という意味)(6)
の池に行って洗うように命じられたのです。
この目が不自由な人は言われた通り、シロアムの池に行
き目を洗いました。主のみことばに素直に従ったのです。
彼は見えるようになりました。
2、霊の目が開かれる
彼の近所の人たちや彼を以前からよく知っている人たち
は、彼の姿を見て驚き、彼に目が開いた理由を尋ねました。
(8-10)
彼は、自分を癒してくださったのは主イエスだと彼らに
証ししたのです。(11)
ところが彼らは神様をあがめるどころか、主イエスに敵
対するパリサイ人のところに彼を連れていったのです。
(13) そして、彼はパリサイ人たちから厳しい尋問を受け
ることになりました。(15-17)
さらに彼の両親まで尋問されて、彼はもう一度証言する
ように半ば脅迫のような形で命じられます。(24)
そのとき、彼は「…一つのことは知っています。私は
盲目であったのに、今は見えるということです。」(25)
と確信をもって証言しました。これは彼の身に起こった、
打ち消すことのできない事実でした。
その結果、彼は会堂から追放されてしまいました。(34)
主イエスは、彼をあわれまれ、もう一度会いに来てくだ
さいました。(35) そして、「あなたは人の子を信じます
か。」と尋ねられました。
ここでの「人の子」とは、主イエスがご自身のことを指し
て言われた言葉です。
彼は、この方が自分の目を癒し、見えるようにしてくだ
さった主であることがわかり、「主よ、信じます。」と告
白し、礼拝しました。(36-38)
パリサイ人たちは、「私たちは見える」(「神様や旧約聖
書のことがよくわかっている」)(41)と思い込んでいたの
で、目の前におられる御子イエス様が救い主であることが
わからず、敵対し、救いにあずかることができませんでし
た。
しかし、この目の不自由だった人は、主イエスの言葉を
聞いて、これに応答し、御子イエス様を救い主と告白しま
した。彼は肉眼ばかりでなく、霊の目が開かれたのです。
結 論)主イエスが、この人を訪ね、御声をかけてくださ
ったように、今も主イエスは、聖霊によって私たちを訪ね、
聖書のみことばを通して語り掛けてくださっています。
主イエスは私たちの霊の目も開いてくださるお方です。
主にお出会いし、主によって生きることの意味に目を開か
れた人は、だれでも彼と同じように「私は盲目でしたが、
今は見えます。」と証しすることができるのです。
主イエスは、「わたしが、世の光です。」(5)と言われた
ように、主イエスを信じ、従う者は、闇(罪の世)から、光
へと移され、光の中を歩み続けることができます。
主イエスの光をいただいて、私たちも「世の光」、
「主に遣わされた者」として、主イエスを証ししてまいり
ましょう。